依存/060619

「由利よ、いるかい」 
 返事を待たずに障子を引く音がした。 
 この長屋の戸は立て付けが悪い。つかえつかえ開いた。通りからの明かりを背中に受けて、男が一人立っている。そこそこの身分を思わせる小奇麗な着物を、長身で着こなしていた。 
「いらっしゃい、佐久さん」 
 答えた自分のみすぼらしさと思わず比較してしまう。ああ、立派だなあ、佐久さんは立派なお人だなあ。逆光の中の立ち姿は光背を輝かせているようだった。おかしな憧憬が胸を満たした。 
「いい加減その蓬髪をどうにかしなさいよ。久しぶり」 
 髷も結わずにほったらかしの頭を、ぐしゃぐしゃと撫でられた。こんなことなら水でも浴びておくのだった。
「で、由利よ、頼んでたものは出来たのかい」
「うん。見て」
 天と地ほど暮らしぶりの違う人間がわざわざ穴倉のような住まいを訪ねてきた訳はそれだった。
 由利は絵を描く。佐久は顧客だ。
 屏風に使うのだという大きな一枚を仕上げたのは昨晩のことだ。まだ床に広げたままのそれを見に、佐久が数歩寄って来る。佐久には匂いがない。漂うのは体温だけだ。他人が近付いたときの、少しだけ体感温度が上がる感覚を、他の誰より強く感じさせる。寒々しい長屋住まいの身は温みに敏感だ。人心地に腹の底から安堵する。四肢が緩んで震えた。
「……いいねェ」
 佐久が低くうっとりと囁く。
「すぐ持って帰っても構わないのかい」
 満足そうに細まる目は、由利を恍惚とさせてくれる。
「大丈夫だよ。もう乾いていると思うから」
「それじゃあ、お代を」
 日に焼けた手が懐に入る。
「いらない」
 そっと掴んで、止めた。 
「いらないってお前さん、いつもいつも」 
「いらないんだ。佐久さんのために描いてんだもの、お金なんて貰えない」 
「金が無くってどうやって食べてくんだ」 
 途端剣呑な声になる。心配してくれているのだと思うと、心地よい鋭さだ。 
「いいんだよ。あのね、佐久さんが来てくれるだけでね、充分お代になってるんだ。その上銭こまでなんて、……分不相応だから」 
「死んだら何も描けねェんだぞ」 
 首を横へ振る。 
 それでもいらない。 
「……払わせな」 
「嫌だ」 
 佐久の袖口を握り締めた。通じないのか。
「ねえ佐久さん、佐久さんのために描いてるんだって言ってるんだよ。金子のためじゃなくってね、佐久さんのために描いてるんだよ。その間は佐久さんのことばっかりを考えていられるので、とてもとても嬉しいんだ。そうやって描きたいんだよ。佐久さんのために描きたいんだよ。お金なんかのために描くんじゃない」
 縋った。余計なものに邪魔されたくない。佐久さん、佐久さん、佐久さん、憑かれたように繰り返すそれが許されることが報酬なのだ。
 近頃は汚れた衣服に巻きつけた腰帯がよっぽど余るようになった。佐久はだから強く言うのかもしれない。しかし譲れない。
「こんな痩せた手足で何を強がってんだ」
 眉間にぎゅっと皺が寄る。ああいいのに。自分のために苦しい顔をするなんて、いらないのに。だから謝礼過多だというのだ。
「強がりじゃないよ」 
 間近でじっと視線を交わす。睨み合いのようでも、僅かに甘みを含むようでもある。 
「……じゃあ絶対に、他からも仕事を請けるって約束しな。きちんと生計を立てるってな」 
「解ってる」 
 そう答えねば心は晴れぬだろう。
 実のところ佐久以外に客を持つことは稀も稀、生活費など当の昔に尽きているのだけれど、誤魔化すことに罪悪感はない。 
 支払いは諦めたのか、佐久は腰を浮かす。 
(帰ってしまう) 
 広く明るく暖かな、本来の居場所へ。
「でも! でも佐久さんも約束をして」
 嫌だ、ともう一度叫びたい。襤褸を着て枝のように肉の削げた自分では、惨め過ぎて言えない。 
「また、描かせてくれるって」
「改めて依頼に来る」
 立て付けの悪い木戸をまたガタガタ鳴らして敷居をまたぐ。食えよ、食うんだぞ、金に困ったら絶対に言えよ。念を押して光りの中へ消えた。
 佐久はいつも依頼をして帰るのではなく、日を変えて次の仕事の話をする。
(仕事の中身を聞くのと、取りに来てもらうのとで、あと二回は佐久さんに逢える) 
 一方で確実な約束を持たない今が無性に不安にもなる。
(もしも、先の仕事が最後だったら。今度の話なんてしに来てくれなかったら)
 そもそもこの空っぽの胃袋で、いつまで体が保つだろう。この間絵師仲間が持ってきてくれた魚を口にしたときには、久々過ぎて内蔵が受け付けてくれなかった。
 それでも佐久のためにしか描きたくないのだ。
 いつまでも佐久のためにけれども命ある内しかそれは出来ない。傍から見れば余りにも下らない二律背反だろう。それでもいつまでも佐久のためにだけ描いていたい。一日でも一日でも一日でも長く、続いてくれるよう祈るしかない。
 いいねェ。ふいと音声が再生する。 
(褒められた) 
「ふふ」 
 佐久の腕に抱えられたあの絵が誇らしくも羨ましい。体が単純に心の入れ物だというのなら、三国一満たされているのは自分だという自信がある。五臓六腑が萎れていても。
 不可視の何かで膨れた腹を、抱えながら目を閉じた。瞼の裏で佐久の背中がちらついて、貴重な水分が眦を滑って落ちた。



(了)




inserted by FC2 system