届かない/060703

 七月が始まり、梅雨が最後の悪足掻きを終えようとしていた。大粒の雨は鬱陶しい湿気を残して太陽に居場所を譲った。つい先ほどの話だ。
 水気と熱気とに小さく呻きながら、他人の家の玄関を無断で開け放つ。土間に草履を脱ぎ捨てる。自宅でなくとも勝手知り尽くしたる木造一軒家は、今日もぽかりと人気が無かった。材木が吸い切れぬ湿気が肌に纏わり付く。加工なき木製の廊下が素足に粘った。みしりみしりと微かに軋む。
「暑いねエ」
 真新しい障子の向こうへ声を掛ける。
「暑いな」
 返事は短かった。書き物をしているからだろう。
「精が出るなア、日高。へぼで野暮の学者様は、こんな暑っ苦しい日でも糞真面目だねエ」
 そろりと障子をひらく。案の定、日高は文机の前だ。
「へぼも野暮も余計だ」
 不服そうだった。着流しの袖が墨に付かないようぐいとまくりあげる、その様はまるで喧嘩の直前のようにも見えた。
「そうは行くかい。このうちには風鈴のひとつさえ無いし」
 殴ろうとすれば殴れる距離に腰を下ろす。
「お客に水も出してくれない」
「出穂」
 疲れた溜息が漏れる。目が据わっている。
「一言もなしにここまで入っておいて、誰が客だ。誰が」
「俺が長屋に帰るまでに倒れたりしたらどうせ日高の手が煩うんだから、水の一杯くらい安いものだろ」
「タカリに来たのか全く」
 まだ響きがうんざりしているが、軟化した。手を煩わせるという言葉は効いたらしかった。
 出穂には一切の血縁がいない。出穂の身に何かあれば、近所の人間は迷わず日高へ連絡するだろう。しかし日高は学問で忙しい。日常の雑務が全て消えてなくなってしまえばどんなにか、と零すくらいには。だから、気を使ってはいる。
「飲み物でも食い物でも好きにしろ。場所は解るだろ」
「悪いね」
 ふらりと立ち上がり、台所側の襖を引いた。
「アア、暑い暑い」
「あのなあ、人といると益々温度が上がるんだぞ。こんなところへ寄らないで、日陰を選んで真っ直ぐ帰れば良かったんだ」
 襖を隙間無く元通り締める。
(アア。全く、日高と来たら)
「ほんとに、野暮だなァ」
 胸中が複雑に渦巻くのは何も今に始まったことではない。
 喉が渇いていた。
 潤いが欲しかった。
 それだけの話だった。



(了)




inserted by FC2 system