表裏/060706

「これはこれは、男前のご帰還だ」
 いつの間にやら座敷へ上がり込んでいたらしい、出穂は酷く楽しそうだった。
「笑うな」
 叱っては見るものの、切れ長の眦はすっかり緩んでいる。
「おれは痛いんだ」
 唸る。確認しては居ないが、熱く疼いたこの頬には、真っ赤な紅葉がついていることだろう。
「一体全体何をやったんだ。花街の姐さん方を悦ばせ損ないでもしたのかい」
「馬鹿言うな。そんなとこへまめまめしく通う暇はない」
 思わずぎっと睨む。出穂はへいへいと肩をすくめた。
「へぼで野暮の学者様は、いつも忙しいんですよねェっだ。本当の原因は、じゃア何だ?」
「……先生の紹介で、見合いをしなくちゃならなくて」
「何だ、ヤッパリ女じゃないか」
 思い切り呆れた溜息を吐かれてしまう。心なしか視線が冷たい。
「恩師に面と向かって否とは言えなかったんだ」
 何故こんな言い訳をしなくてはならないのだ。
「そォれで?」
 最早聞く意志薄げな相槌だった。やる気がない。女の話と言ったって、花街と見合いとでは違うだろう。面倒だから言わないが。
「後は若い人たちで、なんて言われてな。先方のお嬢さんと二人で話しをさせて頂いたんだが」
「美人?」
 中途半端に眉を寄せ、くつくつと喉を震わせて笑う。愉快なのか不愉快なのか掴めない。
「ご実家は商売をなさっていてな、綺麗な、聡明な方だったさ。慎ましやかで。だから、おれに気を使って、言って下さったんだ」
 鈴の鳴るような、澄んだ声だった。じっと耳を傾けねば消え入ってしまいそうな。おしろいの香りと、真っ赤に染まった頬と、細い首筋。
 ――日高さまは、帝国大学で学問にお努めですとか。毎日お忙しいのでしょうに、わたしとのこのお話、本当によろしいのですか?
 伺うように、小首を傾げた。仔栗鼠を思わせる仕草だった。
「で、オイ、まさか」
「ああ解って下さいますか、実は私は嫁舅の話に煩いたくはない、商いもしたくはありません、只攻究を遂げたい題目があるのです、と」
「言ったのか! 馬っ鹿野郎!」
 聞くに堪えないという風に頭を振る。出穂の怒声は容赦なかった。
「彼女もお前みたいに怒って、それでこれだ」
 両手で顔を叩かれた。随分といい音がした。彼女は全く別の意味合いでほほを染め、誇りを傷つけられた瞳は潤んでいた。
「そりゃア手も出るわ! 本物の馬鹿だ! 彼女は気を利かせたんじゃない、日高が『迷惑なことなどあるものですか』と言ってくれるって信じてたんだろうが! あーあーあー可哀相になァ」
「そんな機微が解るか!」
「それくらい解れってんだ! へぼ! 野暮! 大阿呆!」
「最初から先生の面子が潰れないようにして断るつもりでいたんだから、同じことだ」
「ったって、もっとまともな理由をこじつけりゃア良かっただろう」
「俺は嘘が苦手なんだ」
 どうもすぐに顔に出てしまう。
「知ってるだろう、出穂は――」
 たった一つ、全身全霊をかけて貫き通している偽りを除いては。
「もう随分長く、おれの友人をやってるんだから」
 きっとこの嘘を大事に完璧に仕上げることにありとある神経を注いでしまっているから、他を上手くやる余裕が無いのだ。
「……馬鹿正直過ぎるんだよ、日高は」
 仕様が無いやつだ、というような、豪く柔らかな小言だった。
 十数年来の知己、一生付き合うことさえ喜ばしく思える「友」を、欲望のままに失くすわけには行かなかった。



(了)




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