フジハラさんと僕(1)/120513

 逃げなくては。
 頭の中はそのことでいっぱいだった。深く被ったキャップを念を入れて下げ、辺りを見回す。平日の公民館には老人か主婦がいるばかりだ。ピーコートにデイパックを背負った少年は浮いていた。訝しげに見てゆく利用客はいるが、追ってくる者はいないことに安堵する。
 遠くへ逃げる決断をしなかったのは失敗だった。そのときは、電車代より食料や宿の確保に金を使うべきだと考えたのだ。大学の最寄り駅まで使える定期で改札をくぐり、定期圏内にある、普段使わない駅で降りた。昼間は公園やデパートで時間を潰し、夜は二十四時間営業のファミリーレストランや漫画喫茶で粘る。そんなことをしているうちに手持ちの資金はどんどん目減りし、いっそ繁華街まで出れば何某かのアルバイトがあるのではないかと閃いたときには遅かった。長距離移動をする余裕がなくなっていた。
 平日はいい。問題は週末だ。
 追ってくる。きっと週末になれば、本気で、追いかけてくる。思わず体が震えた。喉が塞がれたように苦しかった。今日明日中にアルバイトなり、隠れていられる場所なりを見つけなければならない。
(こんなところでも、探せばいるかな)
 水飲み場の蛇口に口を付ける。少しでも空腹を紛らわせたい。
(僕を、買ってくれる人……)
 身元を明かせず保証人もいない未成年が、手っ取り早く稼ぐ方法はそのくらいしか思い浮かばなかった。上手くすれば夜露を凌ぐこともできる。女ではないぶん買い手は少ないだろうが、全くいないことはあるまい。そう思いたい。容姿にも性格にもコンプレックスしかないが、どうにかするしかなかった。とにかく逃げなくてはならないのだ。
 そのためには少しでも身綺麗にしておく必要がある。なけなしの現金で銭湯にでも行こうか。思い立って蛇口から顔を上げた瞬間、ぐらりと体が傾いた。
 水飲み場の縁に手を掛けて耐えようとするが、無駄だった。力が入らない。ずるずると体が崩れ落ちる。体に引きずられるように、目蓋までもが落ちてきた。そういえば何日食べていなかったんだっけ、ろくに寝もせずに――それが最後に考えたことだった。コンクリートの床の冷たさも、覚醒の役には立たなかった。


 目を覚ましたとき、まず視界に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。
(ここは)
 公民館の薄暗い空間ではない。そこは生活感に満ちていた。サイドテーブルには飲みかけのペットボトルが置かれ、カーテンレールにはワイシャツが干されている。マンションの一室らしい。調度品などから推して、部屋の主は男性だろう。警戒しながら様子を窺っていると、ドアが開いた。
「お、起きたか」
 入ってきたのは細長い印象の男だった。面長の輪郭を縁取る髪の襟足だけが長い。釣り上がった眦を緩ませて、大事なくて良かったな、と笑った。
「アヅミシオ、くん?」
「どうして、名前を」
 男は大学の学生証を掲げて見せた。安積史緒。
「悪いけど荷物を探らせてもらった。どこの誰だか分からないんじゃ困るからな。お前、公民館で倒れたんだよ。医者に見せたらただの貧血だって言うし、とりあえず俺が引き取ったんだ」
「あなたは」
「ま、通りすがりの親切なお兄さんてことでいいだろ」
 疑問が山のようにあった。何より不思議だったのは、この男の顔に見覚えがあるということだった。思い出せないけれど、確かに既知感がある。そう思うと妙に胡散臭く見えてくる。
「動けるようなら家まで送ってやるよ」
 家。
 心臓が飛び出しそうなくらい大きく鳴った。家は駄目だ。
「あ、のっ……!」
 空っぽの胃から何かがせり上がってきそうだった。
「家は駄目なんです。どうしても帰れないんです……!」
 男は怪訝そうな顔をした。史緒は苦しくなった胸をかきむしるように襟元を握る。急な展開で頭から抜けてしまっていたが、逃走の途中だったのだ。
「ご迷惑をお掛けしてすみませんでした。すぐに出ていきます」
 そしてどうにか金を稼ぐ方法と、隠れる場所を探さなければならない。
(頭が痛い……)
「待てよ」
 ベッドから抜け出そうとする史緒を、男が止めた。
「家出少年、料理はできるの」
 男は妙に愉快げだった。
「え。あ、……はい」
 唯一の特技と言ってもいい。必要に迫られて身に付けたものの、楽しい趣味のひとつだった。
「そりゃ助かる。お前、帰る所がないならここに住まないか」
「えっ」
「ちょうど家政婦を頼もうかと思ってたとこなんだ。仕事が忙しいんでね。給料は出せないが、食費光熱費は俺が持つし屋根壁もある」
 どうだ、と手振りで周囲を示してみせる。
「ほんとう、ですか……!?」
 酷く魅力的な提案だった。それほど追い詰められていた。幸いにこの男は極悪人には見えない。変態親父にはした金で買われるよりはマシなはずだ。
「お前が構わないなら頼むわ。俺はフジハラユキヒト」
 こういう字だ、男は左の掌を史緒に向け、右の指でその上をなぞって見せた。藤原行人。
(フジハラさん。フジハラさん)
 忘れないように繰り返す。
「それから、ここに住む上での注意事項。一つ。部屋の出入りはテンキーで、四桁の番号を入れると玄関の鍵が開く。鍵はオートロック。番号を知らないと閉め出されるから気を付けろ。二つ。寝床はリビングのソファで我慢してくれ。ベッドがひとつしかないんだ」
 ということは、今は特別に家主のベッドを占領しているのだ。
「三つ。『行ってきます』『行ってらっしゃい』『ただいま』『おかえり』――この挨拶を忘れずに」
 フジハラは釣り上がった瞳を細めた。その一瞬だけは、腹に一物抱えているような底知れなさがなかった。
「よ、宜しくお願いします!」
 逃げ惑いながら危険な仕事を探すことになるとばかり思っていたのに。信じられないほどあっさりと解決してしまった。
 ともかくこの瞬間から、史緒はフジハラの家の居候になったのだった。


 フジハラのおかげで、史緒は週末をひとつ乗り切ることができた。ありえないと思いながらもここまで追ってこられることを想像し、怯えはしたが、それも杞憂で終わった。
 フジハラの仕事はカレンダー通りの休みではないらしい。史緒が緊張して迎えた週末にも、朝早く仕事へ行き、夜は二十時を過ぎてから帰宅した。正直なところほっとした。他人に慣れるには時間がかかる。ぎこちない態度が申し訳なくてもすぐには直せない。許しを請う意味も込めて、家事は真面目にこなしていた。
 今朝もフジハラより早く起き、朝食を整えた。月曜日の爽やかな朝だった。
「フジハラさん、おはようございます。七時ですよ」
「んー……」
 ベッドの上の男は小さく身じろいだ。
「今朝は浅蜊のお味噌汁に、ぶりと柚のボイル蒸し、だし巻き卵、それからもし食べて貰えるなら昨日作ったキャベツとマイタケの浅漬けも残ってます。起きてくれたらご飯をよそいますから」
 それを聞いて、フジハラはがばりと半身を起こした。腹筋の力があるのだろう。素早い動きに、史緒は目を丸くして身を引いた。
「うまそう。おはよう」
「はい。おはようございます」
 フジハラは裸足のままダイニングキッチンへ向かう。テーブルには申し述べた通りの献立が並んでいた。フジハラが座り、史緒も向かいの席に着く。
「いただきます」
 背筋を伸ばしてぺこんと頭を下げる。史緒も同じようにした。無言で箸を運ぶ。
(話し掛けなきゃ)
 何を。知らないことしかない現状では幾らでも疑問は湧いてくるが、全て不躾な気がして口に出せなかった。
「ちなみに実は」
 フジハラの呟きが沈黙を破る。
「ふあい」
 ちょうど炊きたての白米を口に入れたところで、上手く返事ができなかった。
「今日は休みなんだ」
(え)
 ごくん。ほとんど噛まないまま米を飲み下す。
「えええ! すみませんすみません、お休みだったんですか! ごめんなさい! 起こしてしまって……!」
「あーあー、そんなに謝るなって。言い忘れてたのは俺だし」
 フジハラは不満げな素振りのひとつもなく、浅漬けを茶碗へ運んでゆく。しゃきしゃきとしたキャベツとまろやかな食感のマイタケは炊きたての白米によく合うのだ。味がしみたところで食べて貰いたくはあったが、社会人が貴重な睡眠時間を削ってまですることではない。
「ゆっくり寝ていたかったですよね」
「いいんだって。早寝早起き、朝ご飯。最高に健康的じゃないか。それよりシオ、お前の荷物のことなんだけど」
 急に話が変わった。フジハラは親指で、リビングの隅に転がっているデイパックを指した。
「あれだけか」
「はい」
 取るものもとりあえず出てきた身だ。生活に最低限必要なものさえ入っていない。
「少ないな。とりあえず、服が足りないだろ。貸せる服なら貸してやるけど、全部ってわけには行かないし」
 枚数が足りないことはもちろんだが、とにかく体格の差が問題だった。百七十センチ以上はあるだろうフジハラと、それより頭ひとつ小さい史緒と。今も寝間着代わりに借りたフジハラのTシャツとジャージを着ているが、Tシャツは七分袖のようだったし、ジャージは裾を折り曲げている。
「今日の休みを使って買いに行かないか」
「ど……こまで、行くんですか」
「この辺で買い物って言ったら、九坂駅かなと思ってるけど」
(大学の最寄り駅だ)
 史緒は迷った。自分の行動範囲として真っ先に思い浮かびそうな駅にうかうか出て行っては、見つかってしまうのではないだろうか。平日だから九割九分仕事に行っているとは思う。だがもしも探しに来ていたら。
 言葉に詰まってしまった史緒を、フジハラはただ待っていた。史緒は焦ってますます舌をもつれさせる。あの、あの、ええと。情けなさが焦りに拍車を掛ける。悪循環だ。
「ま、いいや。まだ遠出できるほど本調子じゃないか」
 フジハラはあっさり引き下がった。
「俺が選んでいいなら買ってくる」
「待って下さい! そこまでして貰うわけには行きません」
 間借りの上に身の回りのものまで揃えさせるなんて、分不相応もいいところだ。ハウスキーパーどころでは釣り合わない。
「今更ですけど、お金を返せる宛てもないですし」
「返して貰おうなんて思っちゃいない。そんな馬鹿高い服を買おうってわけじゃなし、気にするなよ」
「だけどフジハラさ」
 言い募ろうとする史緒の口にだし巻き卵が放り込まれる。
「おいしいね、お前のだし巻き」
 フジハラは飄々と皿を空けてゆく。涙目になりながら卵を噛み、焙じ茶で飲み下す頃には、フジハラの分の朝食はほとんど平らげられてしまっていた。
「フジハラさん!」
「悪い悪い」
 口だけだ。全く悪びれていない。
「あの、本当に、これ以上厄介になるのは申し訳ないです」
「シオの料理は本当に美味しいから、これくらいしたいんだよ」
 そう言われると、悪い気はしない。
 いや。腕が認められているなら――たまらなく嬉しい。
 顔が赤くなる。思わず俯いてしまう。その後頭部をフジハラの手がぽんと叩いた。よしよし、と満足げな素振りは、フジハラの言葉が嘘ではないのだと感じさせてくれた。
(何なんだろう、この人は)
 こんなふうに構われるのは初めてだった。
「着替えたら出るから、服以外にも必要なもの考えとけよ」
 誰にでもこんなふうに振る舞えるのか、他人がいないからこうなのか、史緒に対してだけこうなのか。比較対象がないので全く分からない。分かるのは、いかに自分が幸運だったかということだ。
(家を出るまでのぶんを、一気に取り返してるみたいだ)
「……すみません」
 倒れた自分を見つけてくれたのがフジハラで良かった。
「お前ひとり養うくらい大した負担じゃないっての」
(それって凄いことなんじゃないかな)
 三十歳にもならない男性が、無銭無職の居候ひとり面倒を見てしまえるというのは。よほど給金が高い仕事に就いているのだろうか。
「そうえいば、フジハラさんは、どういうお仕事をしているんですか」
 ふっと、フジハラの口元から笑みが消えた。
 失敗したかもしれない。事情を詮索しないでくれている相手のことを知りたがるのは、ルール違反ではなかったか。
 フジハラの笑いが消えていたのは一瞬だった。すぐにまたにんまりと口角が上がる。
「秘密」
 まだ、ね。小声で言うとフジハラは身を翻した。
 やはりどこか胡散臭い男だった。



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