フジハラさんと僕(10)/120714

 お母さん学校まで行ったのよ、と小夜子は言った。軽自動車の助手席に押し込まれた史緒は穏やかな横顔を震えながら見ていた。
「土曜日、お仕事がない日にね。教室にあなたはいなくって――講義に行かないなんていけない子ね――仕方ないからその辺りにいた男の子に訊いたら、教えてくれたの。あなたがあのお店に来ているみたいだって」
 皆川か、皆川の友達だろう。事情を話していなかったのだから秘密にする理由はない。ぐわんぐわんと耳鳴りがした。かじかんだ指が、クリスマスケーキが無い違和を感じ取る。ひしゃげたケーキはもう食べられない。フジハラと一緒に、食べられない。
「今までどこにいたの」
 小夜子の左手が伸びてくる。肩に食い入る。骨がぎちぎちと軋んだ。フジハラの名前を出すわけにはいかなかった。史緒が今まで学校で浮いていた理由には、教師や保護者と軋轢を生みやすい小夜子の存在もあるのだ。「うちの子の扱い」に注文を付ける小夜子は面倒がられていた。従って史緒も疎まれた。小夜子がフジハラのことを知ったら、何をするかわからない。
「どこにいたの」
 手に力を込めると同時にアクセルを踏み込む。フジハラの丁寧な運転とは雲泥の差だ。
「に、二十四時間のファミリーレストランとか、漫画喫茶、とか……」
「ふうん?」
 嘘ではない。一部を隠しただけだ。答えると満足したのか、小夜子の手はハンドルに戻った。後ろへ後ろへ景色が流れる。窓の外は霞み、小夜子の半身だけが浮かんで見えた。沈黙が重い。寒さからではない震えが止まらない。いっそ意識を失いたかった。目が覚めたら、フジハラが買ってくれた暖かな布団のなかであればいいのに。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。静寂を断ち切るようにブレーキが掛かった。それ以上動く気配はない。
「お、かあさ」
「おかえりなさい」
 史緒が逃げ出した夜そのままの、家の前だった。雨風に晒され灰色がかった壁と、赤茶けた屋根。小振りな一軒家にも関わらず聳え立つような圧迫感があった。その脇にある駐車スペースから、史緒は引きずり出された。肌とトレーナーの生地とがまとめて掴まれて痛い。
「それで、頭は冷えた?」
 小夜子は史緒を玄関に放りながら微笑んだ。
「分かったでしょう、おかあさんの言うことはちゃんと聞かないと駄目だって」
 史緒は答えられなかった。ワックスの剥げかかったフローリングに座り込み、じっと視線を落として、黙ることしかできなかった。
「ちゃんと反省したんでしょう」
「ひ」
 小夜子は史緒の頭髪を鷲掴みにした。史緒の、柔らかく茶色がかった髪は父親に似たらしい。小夜子の濡れたような黒髪とは全く質が異なっている。前髪を後ろに引かれた。その力で背中から床に倒れ込む。肩胛骨がごつりと音を立てた。
「ごめんなさい」
 反射的に呟いていた。
「ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいお母さんごめんなさい」
 史緒は嘘が下手だ。隠し事ならば口を噤めばいいけれど、偽るには技術がいる。小夜子の問いに諾と答えるならば嘘、否定するならば――惨事だ。どちらでもない選択肢は、許しを乞うことしか思いつかなかった。そしてそれは史緒のどうしようもない癖でもあった。
 ――シーオ。そうじゃないだろ。
(ああ)
 あのひとが教えてくれたのに。
「反省したんでしょう、もうしませんと言わなくちゃいけないでしょう」
「ご、ごめんなさ、ごめんなさいごめんなさいぃ……」
 史緒、髪をぐいと引いたまま耳元で叫ばれた。史緒、史緒、史緒。びりびりと鼓膜が痺れる。甲高い怒鳴り声がいつ終わるともなく続く。自分が頑是ない子供に戻ってしまった気がした。



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