フジハラさんと僕(11)/120729

 死にはしない。
 手足を折り曲げ背中を丸めて床に転がりながら、胸中でそう唱えていた。案の定、小夜子はその内に自室に去った。持ち帰ってきた仕事を片付けるのだという。
(ほらやっぱり)
 いつもの流れだ。冷笑が漏れる。怒鳴られることには慣れている。
 子供の頃は単純に、自分が悪いことをしたから叱られるのだと思っていた。それが成長するにつれ、彼女の価値観を侵すことが怒りを買うのだと分かって来た。「理想の息子」の枠を外れなければ叱られない。それも大きく外れなければ、痛い思いはしなくて済む。小夜子は史緒を傷つけたいのではない。美しい型に嵌めたいのだ。
(でも、だんだん酷くなってる気がする……)
 喚かれるでは終わらず、体罰が加わるようになったのは、中学生の頃だ。
 何の話の弾みだったろうか。ある日、史緒は級友の家に招かれたのだ。
 ――遊びに来る?
 クラスに溶け込めないでいた史緒に、唯一親しく声を掛けてくれたクラスメイトだった。
 ――行、きたい。
 躊躇いながらも答えた。手を差し伸べられたことが、ただ嬉しかった。
 人の部屋に入れて貰う。目的がなくてもそこに居ていい。とりとめのない談笑を交わすだけの時間が、史緒にとっては特別だった。柄にもなくはしゃいだ。気が付けばとっくに門限を回っていた。
 もう帰らないと。もうかよ。後ろ髪を引かれながら、走って家に帰った。
「ごめんなさい。お母さん、ただいま」
 息を切らして玄関に飛び込んだ史緒は、楽しい時間の余韻で笑みを浮かべていた。それは容赦のない衝撃で打ち破られる。小夜子の平手だった。
「何時だと思ってるの」
 頬にぶつかった手は次に頭頂部に来た。頭蓋が不快に揺れる。二度、三度と揺れる。くわんと耳鳴りがする。
(なんで)
 どうしても理解できなかった。
 執拗に手を上げられたことによる混乱は、史緒の身体に恐怖を植え付けた。翌日から、件の級友とまともに話すことが出来なくなった。小夜子の怒りを買う可能性を考えてしまい、遊びの誘いにも応じられない。疎遠になったのは当然といえば当然だ。
 思えばあれが初恋だったのかもしれない。胸が裂けるような痛みが消えず、泣きもしたし吐きもした。何より前後してやってきた精通のときに、一抹の罪悪感とともにちらついた顔だ。その頃から、自分のセクシャリティに疑問を持つようになった。
(あの後はしばらく、学校以外は家から出して貰えなかったっけ)
 きちんと帰って来ない子への罰だと、小夜子は史緒を手錠で繋いだのだ。手錠の片方は史緒の足に、もう片方には固くロープが結ばれて、ロープの端はベッドの柵に縛ってあった。
「懐かしいなあ」
 それがまだ残っていたとは。
 床に座り込んだ史緒の足首でしゃらんと音が立つ。小夜子は彼女の部屋へと戻る前に、少しの間我慢してねと手錠に鍵をかけた。銀色は時と共に少しくすんでいた。手錠の片側に結ばれたロープがベッドへ繋がっているのも昔と同じだ。ロープの長さは史緒の部屋と同じ二階のトイレに合わせてあり、一階には降りられなかった。
 ロープを解こうとはしてみた。しかし滅茶苦茶に縛られた結び目は解けなかった。指の皮が剥ける前にしぶしぶやめた。逃げ出そうとした痕跡を残せば小夜子がまた荒れる。
(今日は、何月何日なんだろう)
 見るものといえばロープと手錠と、それに似合わぬ私室だけ、という毎日は、時間感覚を狂わせた。除夜の鐘は聞いたので、年は明けているはずだ。
(お正月、か)
 今年は年越し蕎麦もおせちも作れなかった。
「フジハラさん」
 いただきます、美味い、ありがとう。フジハラならきっと笑ってくれる。
「フジハラさんに、作ってあげたかった」
 史緒はこれで何度目かも知れない行為を繰り返した。ベッドの上から一冊のハードカバーを手にとり、表紙を撫で、しおりの挟んであるページを開くことを。本文を目で追っても中身は頭に入ってこなかった。
(いきなりいなくなって、怒ってるかな。それとも、清々したかな)
 『経済学入門』と白地に黒の明朝体で印字された本だった。レポート用に史緒がリストアップした著作とは別に、フジハラがお勧めだと借りてきてくれた。ちょっとした外出でも本を手放さないのが良かったのか悪かったのか、財布と一緒にデイパックに詰め込んでいた。
 毎日フジハラのことを考える。記憶は痛いほど鮮やかだった。
 その場所はもう途方もなく遠い。
(会いたい)
 会って怒っているなら釈明したいし、清々しているというならせめて今までのお礼が言いたい。
 もしも心配してくれたなら。おかえり、と迎えてくれたなら。
(泣いてしまうかもしれない)
 足首を捕らえた手錠が酷く重たく感じられた。鈍い白光から目を逸らしたとき、史緒、と階下から呼ぶ声がした。続いて階段を上る足音がする。
「お風呂にしましょうか」
 ノックもないまま扉が開いた。白魚のような手が伸びて、小さな鍵で手錠を外す。一瞬後にどう動くか予想できない小夜子に、史緒はひたすら身を固くしていた。
 小夜子に続いて階段を下り、ひとりで脱衣所に残される。小夜子はドアの近くで待っている。史緒が浴室に入ったタイミングで、脱いだ衣類を洗濯機で洗ってしまうのだ。浴室から出るまで寝間着は与えられない。ひとりになれても自由はない。連れ戻されてから、毎日同じ手順を踏んでいた。
 煩わしい。けれども馴らされてゆく。何かが麻痺してゆく。
「そうだわ、史緒」
 珍しく扉の向こうから声が掛かった。
「明日はパスポートを受け取りに行きましょうね」
「パスポート?」
 嫌な予感がした。
「役所は明日から仕事始めだもの。あなたの分も申請しておいたから、もう出来ているわ」
 訊きたくない。けれど訊かなくてはならない。
「どうして、そんなものが要るの」
 小夜子は少し笑ったようだった。
「お母さんねえ、海外赴任が決まったの」
 私の仕事が認められたのよ、歌うような調子だった。
「向こうで新事業の立ち上げを指揮するの。軌道に乗るまでどのくらいかかるか分からないけれど、一緒に行きましょうねえ」
 目の前が真っ暗になった。
(フジハラさんに会えなくなる)
 まず思った。現状ならばフジハラの家は遠くない。可能性はあるだろう。しかし外国ではどうしようもない。二三年もあれば、行きずりの家出学生のことを忘れるには充分だ。
「大学は休学か退学ね。あなたの将来に有利なほうを選ばなくちゃねえ」
 小夜子は上機嫌だった。史緒が選択する余地など既にない。
「明日パスポートを貰って、明後日には出国するわよ」
「明後日って……!」
 妙な気を起こさせないために直前まで黙っていたのだろう。小夜子が手錠を掛けながら、少しの間我慢を、と期限を付けた訳が分かった。引き摺ってでも連れて行くつもりなのだ。
「あなたの荷物は私がまとめたから大丈夫。お部屋の片付けも、人を頼むから心配しなくていいわ」
 周到だった。少しでも足掻くことはできないのか。史緒は必死で考える。せめて最後に、フジハラに関わることはできないのか。
(そうだ)
 思い浮かんだのは『経済学入門』だった。ぐっと唾を飲み込む。腹に力を入れて、口を開いた。
「お母さん。図書館に行きたい」
 史緒が自分の要望を口に出したのはいつ以来のことだろう。小夜子を警戒させてはならない。拙い言い訳を重ねる。
「借りている本を返さないと。通学途中によく寄ってた思い出のある場所だから、よく見ておきたいし」
 フジハラが貸し出しに利用したということは、あの図書館はフジハラの行動半径の中にあるのだ。今唯一ある「フジハラに関わる場所」はそこだけだった。
(もしかしたら、逃げ出すチャンスもあるかもしれない)
 少なくとも諾々とパスポートの授受について行くよりはいいはずだ。
「本を返して、少し館内を見るだけでいいんだ」
 その気持ちに偽りは無かった。沈黙はどろりと凝り、長かった。
「……すぐに済むんでしょうね」
(やった……!)
 史緒の無類の本好きは、小夜子のなかで仕方のないものとして処理されている節がある。自然な要望だと納得されたようだった。



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