フジハラさんと僕(12)/120812

 パスポートが無事に発給されたことに史緒は落胆した。パスポートの申請と受け取りは各県の窓口で行う。史緒の筆跡を真似ただけの書類は何事もなく受理されており、真新しいパスポートが手渡された。告発への期待は裏切られた。軽くめくってみるとぺりぺりと糊の剥がれる感触がある。それもすぐに取り上げられる。
「預かっておくわね」
 小夜子は自分のパスポートと二冊をまとめてショルダーバッグに収めた。小夜子のパスポートは赤だ。十年間有効のそれには、任された仕事への力の入れ方が表れている。数年住むことはもちろん、その後も有事には駆けつけられるようにしておきたいのだ。
 幸いにも、小夜子は図書館のことを忘れていなかった。パスポートセンターを出た車は図書館の方角へ向かう。市をまたいでの移動はすぐとは行かない。もどかしかった。建物が見えてきたとき、史緒は現状を忘れて気持ちが昂揚するのを感じた。久しぶりの図書館だった。九坂市立中央図書館は、新しくはないものの清潔感のある象牙色の二階建てだ。
 図書館も今日が仕事始めだ。年末年始にできなかった貸し出しを早速しよう、という利用者が多いのか、駐車場はほぼ満車状態だった。気が逸る史緒をよそに、小夜子はのんびりと駐車スペースを探している。
「本はすぐ返してくるから、……お母さんは待ってる?」
「どうして。一緒に行けばいいでしょう」
 車を止めると、小夜子は運転席から降りた。
(やっぱり、駄目なのか)
 一人にしては貰えないらしい。史緒も『経済学入門』を片手に小夜子の背を追う。自動ドアをくぐると温い空気が流れてきた。入り口の近くには資料の貸し出しや返却を行うカウンターがある。小夜子はそこまでは行かなかった。手前のベンチに腰を下ろす。
「ここで待っているわね」
 史緒は返却コーナーまでの短い距離と時間だけ、ひとりでいることを許された。しかし唯一の出入り口の前に小夜子が座っているのだ。何の意味もない。
 フジハラが来たことのある図書館。今はいない。来ないほうが良かったのかもしれない。今更思う。フジハラを想起させる場にフジハラが不在である事実は、史緒を余計に寂しくさせた。明日には日本を出てしまうというのに、思慕ばかりが募ってゆく。
 もう会えない。
(あ、まずい)
 泣く。真っ赤になった目を人に見られたくなくて俯いた。潤む瞳で瞬きを繰り返す。返却カウンターに本を差し出しながらも顔を上げることが出来なかった。フジハラが借りてきてくれた『経済学入門』はあっさりと史緒の手から離れていった。ハードカバーの裏表紙にあるバーコードが、バーコードリーダーに読み取られる。
「他にご利用の資料はないようですね」
 静かに告げられた。
「アヅミシオ、くん?」
 聞き覚えのある声だった。
 え、と呟いたかもしれない。呟けなかったかもしれない。史緒の思考は硬直していた。俯いた目線の先にある指は細く長く乾いていて、触れたら冷たそうなつくりをしていた。呼吸も忘れて顔を上げた。
 切れ長の瞳が史緒を見ていた。
「ふ……」
 呼ぶことはできなかった。背中に刺さる小夜子の視線と、震えるばかりで用をなさない唇が邪魔をした。心臓がばくばくと鳴っていた。どうしよう。何かしなければ。何を? 史緒は書籍の返却を終えている。本来ならば、カウンターを退かなければならない。
 そこに――フジハラがいるのに。
 見つめてくるフジハラが無表情であることも史緒の緊張に拍車を掛けた。やはり怒っているのだろうか。それとも厄介者との再会を疎んでいるのだろうか。
「返却期限を過ぎていますね」
 言いながらフジハラは手近なメモに何かを書き付けた。
「次からは期限を守って頂くよう、お願い致します」
 カウンターの上に滑らされたメモには、右上がりの字でゼンシュウノタナとあった。全集の棚。主に著名な作家の全集が並んでいる棚だ。わかりましたとどうにか口にし、史緒はカウンターを後にした。思わずフジハラを振り返ってしまいたくなるのを我慢する。
「どうかしたの、史緒。何か言われていたようだけど」
「何でもないよ。返却期限を過ぎてしまったから、少し注意されただけ」
 小夜子は不満そうな顔をした。史緒は不快感をぐっと堪える。そんな目でフジハラを見ないで欲しい。
「じゃあ、一回りだけしてくるね」
「本当に少しだけよ」
 出入り口を押さえている慢心からか、最後の最後だからなのか、小夜子は強いて止めなかった。
「ありがとう」
 極力感情を乗せずに言った。あまり喜んでも訝しまれる。早足もいけない。図書館との別れを惜しむ素振りで、ゆっくりと歩く。横目で窺うと、フジハラの姿は見えなかった。カウンターを出たようだ。
 全集の棚は壁際にあった。一階の中でも端のほうにある上、サイズの大きな本が多く、見通しが悪い。小柄な小夜子では史緒の姿は追えないだろう。来てはみたものの何をしろと言われたわけでもない。史緒はそわそわと周囲を見渡した。
 途端、壁に引き込まれた。
 強い力で手首を引かれたのだ。驚く間もなく薄暗い通路に立っていた。職員以外立ち入り禁止のエリアらしい。壁に取り付けられた扉から手だけを出し、史緒を引きずり込んだのはフジハラだった。ワイシャツの肩を怒らせ、無言のまま史緒を引っ張ってゆく。大股のフジハラについて行くには、ほとんど小走りをしなくてはならなかった。掴まれた手首が痛い。
 フジハラさんだ、と思う。先を行く背中の形を覚えていた。襟足の髪がまた少し伸びている。
「ふ、フジハラさん」
 返事はなかった。それでもまた呼びかけることができた。胸が暖かく満たされる。
(フジハラさん、なんだか)
 耳の端が、赤い。
 ずんずんと通路を進んだフジハラは左方に出てきたドアを開けた。史緒を先に入れ、自分も部屋に入る。乱暴にドアを閉めた。
「この、馬鹿っ」
 殴られる、と思った。しかし違った。痛いほど強く抱き寄せられていた。
「心配した。探したんだぞ」
 低い呟きは史緒のつま先から頭のてっぺんまで響いた。
 史緒が帰らなかったことを案じたフジハラは、翌日、皆川のいるスーパーまで行ってくれたのだという。
「そしたらお前の友達が飛び出してきて、『安積に何かあったかもしれない』って言う。お前の買ったケーキが店の駐車場に落ちてたのを見つけたって。あんなに楽しそうにしていたのに、捨てていくはずがないって」
(皆川くん)
 彼の爛漫な笑顔を曇らせてしまったのかと思うとやりきれない。気に病んでいなければ良いのだが。
 事故なら救急車が呼ばれるだろうところ、皆川も他の従業員もイブの日にサイレンは聞いていなかった。
「だったら親御さんか関係者に連れ戻されたのかもしれないと思った。それで散々悩んだ挙げ句、図書館利用者のデータを開けてみた。なのに登録されてる住所に行ってみりゃあお前は住んでないし」
「ひ、引っ越したので」
 我ながら間抜けな相づちだった。図書カードを作った時点で住んでいた家は父名義の家だった。離婚と同時に母は家を出ている。
「そういうときは利用者情報の訂正をする!」
 左手を史緒の腰に残したまま、右手でデコピンを喰らわされた。胸から上が離れて、フジハラがワイシャツにエプロン姿であることに気付く。本当に職員なのだ。
「司書さん、だったんですね」
 だから何となく見覚えがあったのだ。史緒は高校大学と九坂市に通学しながら、九坂市立中央図書館に通い続けている。四年来のお得意様だ。
「そういうこと。お前を拾った日も、あそこの公民館図書室のカウンター当番だったから第一発見者になれたんだ」
 得意げに口角を上げる。その笑いはすぐに引っ込んで、真剣な目差しが取って代わった。
「シオ。酷いことはされてないか」
 史緒は言いよどんだ。フジハラは痛ましげに唇を噛む。
「俺の仕事終わりまで待てるか」
 フジハラはもう一度、今度は労るように抱きしめてくれた。
「一緒に帰ろう」
 フジハラの手があやすように肩を叩く。帰りたい。帰れたらどんなにいいだろう。
「駄目です。母が待ってるんです」
「じゃあお前だけでも、従業員用の出口から抜け出せ」
「それも無理です。利用者が使える入口はひとつですよね。僕が戻ってこなかったら母は、職員の皆さんに難癖をつけるでしょう。フジハラさんたちに迷惑がかかる」
 フジハラに会いたかった。会えたらもっと話がしたくなった。話をしたら彼の元へ帰りたくなった。自分は欲深い。しかし待ち構えている小夜子がいる限りは逃げられない。
「フジハラさん。僕は、あなたのおかげで、人間を嫌いにならずに済みました」
 思うより先に口を開いていた。結局また離ればなれになるのなら、後悔だけはしたくなかった。
「シオ?」
 ひとりの人間として扱ってくれたことがどれほど得難い経験だったか。濁りきった家の外には、こんなふうに受け入れてくれる腕もあるのだ。フジハラの肩口に頬を寄せて少しだけ甘えた。ワイシャツからよく知っている柔軟剤の香りがした。思いがけず史緒は微笑んでいた。
「ありがとうございます。最後に、あなたにもう一度会えて良かった」
(この人のことが――好きだ)
 自分のなかからフジハラに向かうたくさんの感情を、突き詰めてまとめたら一言になった。単純なことだったんだとなんだかおかしくなる。
 もう後がないこのときに納得するなんて、滑稽でもあった。そしてそれは、告げずに海の向こうへ持って行く。いま伝えたところでフジハラを困らせるだけだ。
「最後ってどういうことだ」
「母が海外転勤になりました。僕も連れて行かれます」
「なっ」
 そんな馬鹿なことあるか、低く唸る。
「出発は」
「明日、です」
「明日ぁ!?」
 フジハラは頓狂な声を上げるや、口元に手を当てて考え込んだ。
「時間がないな。シオ、お前が今住んでる家の住所をここに書け」
 業務用のメモ帳とボールペンを差し出される。
「迎えに行く」
 有無を言わせない口調だった。
「今夜の十二時だ。どうにか家の前まで出てこい」
「っ、無理です……僕は、閉じ込められているから」
 フジハラの表情が険しくなる。
「だからお前を帰したくないんだ」
 フジハラの右手が史緒の鳩尾に触れた。
「こんなこと二度と許したくない」
 フジハラの言葉の意味を理解したとたん、消え入りたくなった。フジハラは史緒が熱を出して倒れたとき、史緒を寝間着に着替えさせてくれた。そこで気付いたのだろう。
 鳩尾を中心に腹部に残る無数の痣を、史緒は恥じていた。
「ご、ごめんなさ……っ」
 古い痣も最近の痣も、澱のように積み重なって消えない。青黒い痕跡はぼんやりと広がって、史緒の弱さをあきらかに示しているように思えた。
「お前を責めてるんじゃない」
 フジハラの両手が史緒の肩を強い力で掴んだ。いいか、シオ。ゆっくりと、噛んで含めるように、言う。
「無理なんかないんだ。全部お前の気持ち次第なんだ」
 フジハラの目差しは鋭かった。
(僕の、気持ち)
 今まで小夜子の手の内にいた史緒は、自分の意志を持つことを避けていた。大学進学に際しても、母の薦めで経済学部を選び、実家から通えと言うから近場で、出来る限り偏差値の高い大学を受験した。考えがあっても押し殺すことに慣れた。そうしないと生きて来られなかった。
「シオ。俺のところに来い」
 けれどもフジハラはいま、史緒自身が出した答えを求めてくる。
「そうしたら絶対に幸せにしてやる」
 勿体なかった。こんな自分が、フジハラを選ぶことが許されるのか。どう考えてもフジハラに利点はないのに――それなのに、渾身で飛びついてしまいたい衝動に駆られる。
「フジハラさん」
「はあいお二人さんそこまでー」
 ガンガンガン、とドアが叩かれた。知らぬ声の介入に、史緒ははっと顔を上げる。
「開けろ。タイムリミットだ。安積君のお母さんが探してんぞ」
 小さく舌打ちをし、フジハラは鍵を開けに行く。
 鍵が開くや否や闖入して来たのは、乱暴なノックからは想像もつかない大人しそうな青年だった。清潔に切りそろえられた髪に、銀色のフレームの眼鏡をかけて、学生服でも着ていようものなら委員長か文学少年かといった出で立ちだ。色白の細面からも理知的な印象を受ける。
「サボってんじゃねえぞ、ユキ」
 飛び出してきた言葉は辛辣だった。やっと先ほどのノックと目の前の青年が繋がった。
 フジハラは青年に、ばつの悪そうな顔を向けた。そこには思いがけない幼さがあり、史緒はどきりとする。こんな顔は見たことがない。
「あのなぁ。空気読め、ハナ」
(ハナ、って)
 愛してるぜ。フジハラの冗談めかした声音が蘇る。
(この人が)
「文句言うヤツには協力してやんねえ」
「あーもー待てって。待って下さい。ピンチなんだって」
 フジハラの「大事な人」だ。フジハラの纏う空気が和らいだことも、この青年が「ハナ」だと言うなら得心がいく。いくけれども、どうしようもなく胸は痛んだ。
「仕方ねえな。この子は俺がきっちり一般利用者のフロアまで送り届けてやる。オマエはさっさと仕事に戻れ。上手いこと昼休みに入った俺に感謝すんのを忘れんな」
「わかってるわかってる。お願いします、おハナ様」
「全く心が籠もってねえよ。安積君、こっちに」
 「ハナ」が手招きをする。
「あ。ちょっと待った」
 史緒が「ハナ」のほうへ駆け寄ろうとするのを、フジハラが止めた。
「ハナ、三十秒だけ明後日向いてろ」
「……またバカなこと考えてんだろ」
 「ハナ」は何かを察したようで、呆れた声を出しつつも踵を返した。
「フジハラさん、どうし……」
 言い終わる前に、唇が触れていた。
(っえええええ!?)
 いつの間にか顎を長く冷たい指に捉えられている。驚きのあまり後ずさりかけたものの、腰も押さえられていて動けなかった。フジハラは丁寧に幾度か史緒の唇に触れ、次に軽く音を立てて啄んだ。合間に、滑らかな舌が史緒の上唇と下唇の間をなぞる。
「ふぁ……っ」
 息苦しさに口を開けると、その隙を突いて舌が這入り込んできた。そのまま歯茎を探られる。危うい感触に食いしばっていた歯が緩み、奥まで進入を許してしまう。フジハラの舌が器用に史緒の舌を絡め取る。同時に腰にあった手が数えるように背骨を撫で、かりかりと引っ掻く。背筋が震えた。それが恐怖から来るものではないことに混乱した。顔が熱い。
(何、これ……っ)
 引き出されようとしているのは、何だ。足に力が入らない。フジハラの支えがなければ崩れ落ちていたかもしれない。
「十二時だ」
 やがてゆっくりと唇が引いてゆき、近すぎて認識できなかったフジハラの瞳が形をとる。フジハラの親指が、確かな意図を持って、感触を確かめるように史緒の下唇を押した。ぬるりと滑る感触にまた震えが走る。
「なん、なんで……っ」
「今夜会えたら教えてやるよ」
 フジハラはにんまりと笑った。
(ずるい……!)
「じゃあハナ、今度こそ任せた」
「いいからさっさと行け」
 しっしっと手を振る。「ハナ」が先ほどからずっとそこにいたことを、やっと思い出した。穴があったら入りたい。フジハラの足音が遠のいて聞こえなくなる。
「どうしようもなく恥ずかしいヤツ」
「わあああごごごめんなさい!」
「悪いのは全部ユキ」
 「ハナ」はにべもない。
「ともかく、俺たちも行こう。ウチはテンキー付きの出入り口は少ないから、利用者が入ってこれないことはない。万が一他の職員に会ったら『うっかり迷い込んだ利用者を一般フロアに案内してる』って説明するよ。適当に合わせて」
「は、はい。あの」
 何、と「ハナ」は歩き出しながら小首を傾げた。無表情ではあるが、フジハラといるときほどの険はそこにはない。全体の印象も、もともと目尻が下がっていることもあってか柔らかく変わる。史緒は急いで「ハナ」の背中を追った。
「ハナ、さんの、本当のお名前は……」
 まさかハナが本名ではあるまい。よしんばそうだったとしても、いきなり呼ぶのは憚られる。
「ハナオカだけど。下の名前は充分の充って書いて、ミツル。……アイツから聞かなかった?」
 史緒はこくこくと頷いた。はい、と答えることもままならない。初対面の相手と二人で歩くというのは、史緒にとっては難儀なことだ。
「ふうん。ていうか、アイツどのくらいまで君に話した? アイツ自身のこととか」
「ぜ、全然、聞いたことが、ないです」
「全然?」
 花岡は不可解そうな面持ちになる。
「はい、えと、お仕事のこととかも、今日初めて知ったくらいで」
「あー、なるほどね」
 何がなるほどなのか。花岡はあのアホ、と吐き捨てた。
「たぶんそれで、拗ねやがったな」
「拗ね……?」
「つまり安積君は、今日までアイツがここで司書をやってるって気付かなかったんだろ。自分は覚えてるのに君には全く気付いて貰えないのが、ちょっと悔しかったんだろうさ。子供かってんだ」
 ハナは簡単に断じた。
(よく分かってるんだなあ)
 史緒の気持ちはしゅんと萎んだ。花岡がフジハラにとって大事な人物だということは、先ほどの思わせぶりな台詞は史緒を奮起させるための方便なのではないだろうか。
(かわいそうだからって、だけなのかも)
 花岡の歩調には確たるものがある。自分に自信を持っているようで羨ましかった。
「あのね安積君。今までにもそういう目で見られたことがあるから言うけど、君は勘違いをしてる」
 横顔がいきなり口をきいた。
「俺とユキの間に恋愛感情はないから」
「えっ」
 鬱屈とした胸の内を見透かされた気がした。あたふたと視線が泳いでしまう。
「俺はただの大親友様。ユキの相手はよく俺を目の敵にするんだよなあ」
 花岡はぼやく。一度二度ならずフジハラの恋人と衝突しているということだろうか。
「そもそもアイツ、恋愛運さっぱりなんだよね。俺を筆頭に周りの人間には恵まれてるけど、恋人となると見る目ゼロ。残念賞。初めての彼氏から最近の彼女まで知ってる俺が言うんだから間違いない」
「そう……なんですか」
 フジハラの口付けを思い出す。わけがわからなくなるほど気持ちが良かった、その理由が見えた気がした。
「安積君は今までで一番マトモそうだ」
「ま、マトモって」
 以前花岡が見てきたのはどんな人たちだったのだろう。それに、史緒を数に入れるのは気が早過ぎる。訂正しようと慌てふためく史緒を、花岡は笑わなかった。
「だから君に頼む」
 真顔で言われた。
「ユキの言葉を信じてやって。それで、ユキを幸せにしてやってくれ」
「どういう、ことですか」
「君の生い立ちの複雑さに、ユキも負けてないってこと。ユキが言う前に俺が言うわけにはいかないけど」
 花岡は悔しさを隠さなかった。
「俺じゃあ、出来ないから」
 史緒ならば出来るとでも言うのだろうか。信じられなかった。フジハラの隣に立つ人間としては、花岡のほうがよほど相応しく思える。
「僕は、そんな期待されるような人間じゃありません」
「君には可能性がある。俺には無い」
 なぜそこまで言い切れるのか分からない。花岡にとって、史緒は数多い図書館利用者のひとりか、ぽっと出のフジハラの同居人に過ぎないはずだ。フジハラも史緒のことを覚えていたらしいし、知らぬうちにおかしな行動を取っていたのだろうか。
「僕は、そんなに目立つ利用者だったんですか」
「それもアイツに直接聞いてみなよ」
 花岡は口を割ろうとしなかった。
「そうだ。さっきのメモ帳、書けてたら預かってく」
 書けては、いた。行き先を決めかねているような、力のない線だった。フジハラのものを返さないわけにはいかない。言い訳めいたことを考えながら花岡にメモ帳を渡した。
「さ、ここから一般利用者のフロアに出られる。ドアを開けたらすぐに、腰の高さくらいの本棚があるんだ。俺の後ろから姿勢を低くして出て来れば、入口の辺りからは見えない」
 ドアノブに花岡の手が掛かる。
「十二時だよ。ユキは絶対に行く」
 力強い声が背中を押す。史緒は恐る恐る、ドアの外へと踏み出した。




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