フジハラさんと僕(13)/120827

 小夜子は出口が死角にならない範囲で史緒を探していた。おずおずと現れた史緒を睨め付る。
「どこにいたの」
 史緒は一階の奥にある閉架書庫――入口の周辺からは様子がわからない――にいたと偽った。
(嘘、ついた)
 ずっと苦手だったはずの嘘を。
 流石に静まりかえった図書館で怒鳴られることはなかったが、帰るわよと身を翻した小夜子の背からは憤怒が滲んでいた。フジハラはカウンターに戻っているはずだ。意識的にその方向から目を逸らした。どこから何を悟られるか分かったものではない。
 帰宅する頃には日が落ちていた。冬の夜の訪れは早い。肘を掴んで助手席から引きずり下ろされる。史緒は強く抗うわけではないが、協力的でもない。流動物がずるりと落ちてゆくような動きだった。
「そうだわ」
 玄関で小夜子は手を打った。そのまま史緒をリビングへ連れて行く。
「これが明日持っていく荷物よ」
 旅行用のトランクが二つ置かれていた。
「あなたのぶんは、こっち。必要なものは詰めておいてあげたから、なんにも心配いらないわ」
 トランクは、史緒の身体くらい屈めば入ってしまいそうな大きさだった。史緒の生活全てを納めるには小さすぎる気もした。小夜子はトランクを玄関に並べる。史緒はこのトランクを持って行くことはない。そのはずだ。フジハラと落ち合うつもりのなら。
(だけど)
 逆接を思い浮かべてしまったことをすぐに後悔する。いけないと思うのに続きを考えてしまう。
 だけど、それでいいのか。
 この家から出て行くということは、小夜子の庇護下から出るということだ。何だかんだ言って史緒には、小夜子に依存してきた部分がある。小夜子は史緒の不利益に敏感だったし、史緒にとって必要だと判断したものには相応以上に金銭もかけた。それらを失うことになる。学費が払えず大学を辞めたとしてその後はどうするのか。働くのか。働けるのか。胃の腑がじっとりと重たくなった。
(僕は、世間を知らない)
 何よりも、引かれたレールの上を歩くのは楽だ。考えなくていい。躓いても指示した人間のせいにできる。
「さあ部屋に戻りましょう」
 小夜子に背中を押されて階段を上る。玄関がだんだん離れてゆく。階段はすぐに終わり、自室で再び手錠をかけられる。このまま大人しく繋がれてしまっていいのか。自問はすれど動けなかった。あっけなく鍵はかかる。史緒をひとり残し、小夜子は部屋を出て行った。
(今すぐ脱出できたとしても、十二時まで逃げ切れるとは思えない、し)
 ただの逃げ口上だと分かっていた。動けなかったのは単に答えが出なかったからだ。これまで史緒は、ほとんど何も選んで来なかった。そのツケが今になって来ている。
(怖い)
 ご飯よ、と小夜子が盆を抱えて来る。塞がれたような喉に味気ない総菜を詰め込むと、今度はお風呂よ、と手を引かれる。その間何をすることも求められない。入浴のために一度手錠を外されながら、このときも史緒は動けなかった。浴槽から出れば清潔な衣類が貰える。部屋には暖房器具もある。小夜子の言うことさえ聞いていれば暴力を振るわれることもない。
(もしもフジハラさんが来てくれなかったら?)
 小夜子の手から逃れ、フジハラに見捨てられたら、本当にどうしようもなくなる。
(来てくれても、いつまで僕を置いてくれるだろう)
 史緒は唇を噛んだ。不意に、フジハラの指がそこを掠めていった触感を思い出す。深く沁み込むような触れ方だった。こんなときなのに動悸が早くなる。
(何考えてるんだ)
 ぶんぶんと頭を振って忘れようとする。そうすればするほどフジハラの挙措が蘇ってくる。
 ――無理なんか無いんだ。全部お前の気持ち次第なんだ。
 フジハラの言葉が、いやにくっきりと耳に響いた。
 史緒の胸ひとつだと、フジハラは言ったのだ。
 小夜子から逃げられるかどうか。そのあとの生活をどうするか。そんな話はしなかった。 フジハラに迷惑がかかるかどうか。そんな話でもなかった。他ならぬ史緒の気持ちはどうなのか。フジハラが求めたのはそれだけだ。
(え? うわ)
 そうか、と思わず零していた。突然に、史緒は自分の狡さを痛感した。誰かのため、誰かに迷惑をかけないように、誰かが望んでいるから。そう言い訳をして自分は、大切な判断を他人に委ねてしまっている。無責任に、自分だけは安全な場所にいようと甘えているのだ。
 可能不可能も、選択した後のことも、選ぶ前から分かるわけがない。フジハラの負担になってしまうのかどうか、それをフジハラが受容してくれるかどうか、可能性は五分だ。最悪の結果にならないように努力することは、いくらだってできる。史緒が思考停止してしまわなければ。
 いま考えるべきは、自分の責任で何を選ぶのかということだ。失敗しても後悔しない、少なくとも人のせいにはしないでいられる選択をすることなのだ。
(僕は)
 頭の中を真っ白にした。無意味な想像は追いやって、残ったものを捕まえる。僕は。
「フジハラさんの傍にいたい」
 だけどあの人のせいにはしない。
 それが答えだった。言葉にしたとたんふっと身体が軽くなった。
「よし」
 ここから、出るのだ。持ってゆくべきものはないか、部屋を見渡してみる。数年を暮した部屋なのに、絶対に必要なものがないのが不思議だった。
(フジハラさんだ)
 何も持たずに転がり込んだ史緒に、フジハラは様々なものを揃えてくれた。いつの間にかフジハラの家は、史緒が当たり前に暮らせる場所になっていたのだ。
(そうだ。フジハラさんはきっと、受け入れてくれる)
 信じよう。苦手だから言い聞かせる。信じるんだ。
 史緒は結局デイパックに、預金通帳や印鑑、学生証など最低限のものだけを入れた。静かに立ち上がり、左の足首に嵌められた手錠を見下ろす。手錠にはロープが繋がっており、ロープはベッドの転落防止用の手すりにしっかりと括られていた。木製のベッドは十数年も前に小夜子が買ったものだ。職場での立場も今とは違い、あまり高価な買い物はできなかったのだろう。長いこと使えたのは大きめのシングルベッドだからだが、造りは華奢だった。
 この部屋で、ベッドの上で、たくさん泣いた。怒ったことも悔しかったことも後ろめたかったこともあった。少しだけれど、笑ったこともあった。
(辛いことだけじゃなかった)
 ゆっくりとベッドに向き合う。元は黒かったものがところどころ剥げ、木肌が覗いていた。
「さよなら」
 史緒は高く上げた右足を思い切り振り下ろした。めきめきと激しい音を立てて、手すりは縦にひび割れた。




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