フジハラさんと僕(16)/121010

 俺がお前より学年ひとつ上の頃、とフジハラは切り出した。
「つまり大学二年のときだな」
 フジハラは史緒をまっすぐに見つめてくる。史緒の瞳のほうが、話の行く末を恐れて揺れていた。
 その日はフジハラの二十歳の誕生日だった。お祝いに家族水入らずで外食をする予定だったのだという。酒が飲める歳になった息子と乾杯するために、父母はタクシーに乗った。授業を終えたフジハラを大学の前で拾い、父の行き着けの居酒屋へ向かうはずだった。大学生が行くには少々敷居が高い店だ。両親に大人の仲間入りを認められたようで、気恥ずかしくも嬉しかった。
「だけど父さんと母さんは来なかった」
 待っても、待っても待っても来なかった。携帯電話は通じなかった。何があったのか怖くてたまらなかった。頭がパンクしそうだった。やっと振動した携帯電話からもたらされたのは最悪の報せだった。
「信号無視のトラックが十字路で突っ込んできて、即死だったって」
 フジハラは史緒を抱き寄せた。フジハラの表情が見えなくなる。深く、何かを押さえ込むような呼吸が続く。
「父さんは無口で穏やかな人だったけど曲がったことが嫌いで、俺が馬鹿やったときにはこんこんと説教をくれたりした。母さんは日向みたいにあったかくて、どんなときでも笑顔を絶やさない、すごい人だった」
 耳を押し当てた胸板の奥で、フジハラの鼓動が早まっている。
「尊敬してた」
(泣、く?)
 史緒は思わずフジハラの背中をさすった。
「無理、は、しないで下さい」
 史緒のほうまで泣き出してしまいそうだった。フジハラは首を横に振る。
「お前に聞いて欲しい」
 大事な人たちはあっけなくいなくなってしまった。フジハラはその後の記憶がぽっかり抜けているという。気が付いたら葬儀場だった。白壁に菊の花、棺、いつか撮った両親の写真が掛けてある。そこでも呆然としていた。どんな感情を、どうやって表に出していいのか分からなかった。あまりにも多くの思いが巡って整頓ができない。胃液と一緒に吐き出してしまいたかった。吐いても吐いても感情は消えなかった。
 まずは、怒ればいいのだろうか。そう思ったところに、喪服を着た若い女がやってきた。トラックの運転手の、妻だった。何とお詫び申し上げていいのか、と女は言い切れなかった。語尾は涙で消えた。身体を二つに折り曲げてぐずぐずに泣き崩れながら女は謝罪をし続けた。フジハラは何も言えなかった。女は謝罪をし続けた。トラックの運転手も搬送先の病院で命を落としていた。この涙はきっと、フジハラのためでもあり、同時に夫のためでもあるのだ。フジハラの怒りは矛先を失ってしまった。女を責め立てることはできなかった。無二の何かを失った者同士だった。
「そのときからだ。誰も俺の気持ちを理解してくれないって感覚が、纏わり付いて離れなくなったのは」
 他人を完全に理解することなどもとより不可能だとか、自分は周りの人間に恵まれているのだとか、頭では分かっていた。我ながら子どもっぽい発想だと自嘲さえした。
 それなのに気持ちがついて行かなかった。
「ハナは根気強く俺を励ましてくれたし、叔父さん――父さんの弟で、弁護士をやってるんだけど。この人は父さんと母さんと本当に仲が良かったから、俺のことも何かと気に掛けてくれた。相続のことも、保険のことも、全部やってくれた。すぐに必要にならない金は、任せてくれたら上手く運用してみせるって言って、ほんとにその通りにしてくれもした。恩人なんだ。だけど」
 花岡には両親がいる。叔父にとって、フジハラの父母は当然親ではない。大切な家族、無条件に自分を受容し愛し時に叱って育んでくれた両親を失った現実を、分かち合うことは出来ない。彼らの優しさには心底感謝していた。それでも、フジハラは寂しかった。深いところまで染み通る人肌が欲しかった。必要なのは同情ではなかった。抱き合う相手は、選びさえしなければすぐに見つかった。
「そんなときだった。お前と話をしたのは」
「僕と?」
 公民館で拾われるより前に、会話をしたことがあったのか。史緒は必死で記憶を手繰ったが、これというものに思い当たらない。
「場所を変えよう」
 唐突に、フジハラは史緒の手を引いて立ち上がった。
「図書館で、俺達は一度話をしてる。俺は就職二年目、お前は高校三年生。ちなみに、お前の名前を覚えたのはもう少し遡る」
「ど、どうしてですか?」
 利用者はリピーターも含めて年間二十数万人はいるというのに。フジハラはリビングを出て、自室の隣にある扉の前で立ち止まった。その扉は開かなかったはずだ。史緒が掃除をしたときにはそうだった。
「それは」
 しかしフジハラは金色のノブを握り、いとも簡単に回してしまった。鍵が掛かっていない。
「こういうことだ」
 フジハラの押し開けた扉の中を、史緒は見た。書籍が詰まった本棚が壁を埋めていた。




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