フジハラさんと僕(17)/121115

 一昨年の、ある夏の日だった。九坂市中央図書館の窓の向こうで蝉の鳴き声が響いていた。抜けるような晴天から降ってくる光は白い。さぞかし外は暑いのだろう。天気予報は今日も三十度を超える夏日だと伝えていたが、ガラス一枚隔てると実感が沸かなかった。フジハラはカウンターのなかで小さく欠伸をした。
「間抜けな大口を閉じやがれ、ユキ」
「うるひゃい」
 すかさず並んで座っている花岡に叱られる。夏休みに入り、平日でも学生がやってくるようになった。利用者の絶対数が増えているということだ。今も館内にはそこそこに人がいる。情けない姿を、どこで利用者が見ているかもしれない。
「オマエのせいで俺までサボってると思われるだろ」
「昨日あんまり寝てないんだよ」
 ますます花岡は渋面になった。ああまずいかな、頭のどこかで思う。しかし花岡の眉間の皺や、自分のだるい身体は、現実感の薄いものでしかなかった。カメラで撮った映像を見ている気分だった。
「この間の風俗嬢か」
「あの子とはもう終わった。昨日は、逆ナンしてきた女子大せっでええっ」
「でかい声出すんじゃねえよバカッ」
 花岡は小声で言うが、脳天にいきなり手刀を喰らわせてきたのは誰だ。近くを通った利用者がちらちらと訝しげな視線を投げてくる。二人は営業用の笑顔を作り、なんでもないですよ、とアピールする。
「ったく、どいつもこいつも一ヶ月と保ってねえぞ」
 返す言葉もない。ひとりで放り出されると落ち着かず、すぐに相手を捕まえる。付き合いは続かない。そしてまた次へ。悪銭身につかずとはよく言ったもので、労苦なく作った恋人はいなくなるのも早かった。
「寂しいんならなあ、じっくり一人の相手と付き合えよ」
「分かってる」
 しかし待てないのだ。時間をかけて関係を深める余裕が無かった。時間をかければ理解し合えるとも思えなかった。ただ恋人という特殊な立ち位置に、誰でもいいからいて欲しい。何の重みもなくたって、手放しに、機関銃みたいに、好きと言われると少しは胸の穴が塞がる気がした。
(薄ら寒いね)
「とにかく不特定多数を相手にするのはやめろ。女を甘く見ると後が怖いし、病気うつされたって知らねえぞ」
 確かに女の情を軽んじてはいけないのかもしれない。女のほうが継続する関係を嫌がらない。少なくとも付き合い初めくらいは。
 感情的な生き物――扱いを誤ると恐ろしい。
「聞いてんのか」
「あ、なあ、見ろよハナ」
 説教が続きそうだと察知し、花岡の意識を逸らす。故意と気付いているだろうに、花岡はとりあえずフジハラの示した方向に目を向けた。
「何」
「いま入口から入ってきた高校生がいるだろ」
 フジハラと花岡がいるカウンターは、入口から見て一番奥の壁際にある。距離があるため顔立ちなどの特徴は掴みにくいが、制服のズボンが分かりやすい目印になった。
「あの子が何」
「アヅミシオ君」
 安積史緒は図書館の常連利用者だ。授業の後に足を向けるからか、大抵は利用時間が十九時まで延長されている水曜と金曜の夕方にやって来る。ちょうどフジハラがカウンター当番に当たるタイミングだ。
「ああ、この間言ってた……オマエと本の趣味がそっくりな子か」
 フジハラは頷いた。
「びっくりするくらい。昔の自分を見てるみたいなラインナップで借りていくんだよ。受験生らしくて最近はペースが落ちてるけど、古典と歴史もの中心に、たまに思い出したみたいにデイヴ・ペルザーとかロバート・D・ヘアとか」
「ああ、なんつーかハシカみたいなもんだよな」
 血なまぐさいもの暗いものに惹かれる時期というのは往々にしてある。
「そう。そのうちエンデとかケストナーとかに行くんじゃないかと予想してる。ていうか、行ったらハマるだろうなって」
「お。その安積君がこっちに来るんじゃねえの」
 何かを探している風情だった少年は、書棚の間にフジハラと花岡のいるカウンターを認めると、歩みを向けた。しかし目線をおどおどと彷徨わせる姿は、躊躇っているようにも見えた。
(まあ、いつもああいう感じって言ったらそうだけど)
 自分を見るなと言うような仕草は、逆に周囲から浮いていた。
(誰も君のことなんか見ちゃいないのに)
 見て欲しくもあるのだろう。複雑な十代の自意識は、覚えがあるだけにフジハラを苛立たせる。
 無地の通学鞄を斜めに掛け、胸の前で鞄の紐を強く握っている。何かに耐えてでもいるようだ。ワイシャツから伸びる腕は夏にあって不自然なほど白く、細い。睫毛に掛かる前髪の向こうから硝子玉のような瞳が覗いていた。酷く緊張している様子だった。少年はカウンターの前で足を止めた。
「あ、の、すみません」
 消え入りそうな声だった。
「ここで、調べ物を手伝って貰えるって、聞いて」
「はい、承ります。もしかして、さっきの図書館活用法のセミナーに参加なさった?」
 フジハラはすかさず図書館員の顔をつくる。少年は視線を上げようとはしなかった。ただこくりと頷く。
 現在フジハラと花岡がいるのは、資料の貸借手続きをするカウンターではない。レファレンス・カウンターだ。レファレンス・カウンターでは、図書館利用者の持つ疑問に対して、司書がその解答又は解答の手がかりになる資料を提示するサービスを行う。その基本を踏まえた上で、どの程度のサービスを提供するかは図書館ごとに異なる。資料探しや資料取り寄せの手伝い、読書相談などまでする館もあれば、純粋に調査業務のみを行っている館もある。
「セミナーで聞いてらっしゃるかもしれませんが、当館のレファレンス・サービスは蔵書とオンライン・データベース、インターネットを使った調査業務が主です。特定の資料をお探しでしたら読書相談のカウンターをご案内しておりますが」
「え、と」
 どうやら初めてレファレンス・カウンターを利用するらしい。少年は眉をハの字に寄せた。
「あるテーマ……疑問? に、答えてくれる本を探しているとき、は」
「ああ、それでしたらこちらでお伺いします」
 お掛けになってどうぞ、と椅子を示す。少年はおずおずと腰掛けた。フジハラと花岡の視線を避けるように顎を引いている。
「どういったテーマの資料をお探しですか」
「家族関係について、調べたくて」
「なるほど。もっと具体的には何かありますか? 家族のなかのどういった関係性、問題点が気になる、といったような」
「す、すみません」
 的外れなことを訊いたと思ったのか、少年は真っ赤になった。別に責めているわけではないのだが。
「ええと……親と子どもの関係、と、いうか」
 言いながら俯く。柔らかそうな髪が揺れた。
「家庭内暴力……とか」
 どうやらこっちが本命か。フジハラは瞳を眇める。花岡も一瞬妙な顔をし、少年に気取られないうちに真顔に戻る。
「家庭内暴力という言葉は子から親、ドメスティック・バイオレンスは主に男性から女性への暴力を指すことが多いのですが、そのどちらかでしょうか」
 なるべく事務的に訊いた。
「親から子に対する……です」
「なるほど」
 パソコンを操作する。タイトルだけでは探しにくいだろう。内容や目次など、やや詳しい項目も含めてフリーワード検索が可能なデータベースを開いた。しつけや虐待と言ったテーマから探していくのが早そうだ。
「今、関連書籍を探しています。他に過去の新聞記事や関連論文などもお探しできますが」
 九坂市立図書館では、全国紙の過去の記事をまとめたデータベースと、学術論文のデータベースも購入している。
「いえ、あの、本だけで」
「畏まりました」
 目次やページ数を参考に、資料を絞り込む。難しすぎる専門書や、テーマが広範に渡るもの、あまりに内容が軽いものなどを除き、最終的に六冊を残した。
「この辺りの資料が参考になると思いますよ」
 書誌情報をプリントアウトしたものを少年の前に並べる。初めて少年はフジハラと花岡を見た。手早い仕事と認めてくれたのか、目をまん丸にしてほうと息を吐く。あどけない仕草だった。
「ありがとうございます」
「もしもっと知りたいことが出来たら、また気軽に声を掛けてね」
 年下相手とはいえ、花岡が利用者相手に敬語を崩すのは珍しかった。
「それにしても熱心だけど、もしかして、怖いお父さんでもいるのかな」
 気安い調子で訊いた。しかしこの少年は、他人が自分に向けてくる思惑には敏感そうだ。
(あまり上手くないアプローチなんじゃないか)
 どう反応するだろうと他人事ゆえの気楽さで眺めていた、そのときだった。
 少年が笑った。
「父は、もういません」
 こちらではないどこかを見る目が暗い。歪んだ唇は何かを諦めたような虚脱に満ちていた。白い歯の並ぶ洞(うろ)から出た言葉は、フジハラの虚ろへ谺した。フジハラはこの表情を知っていた。
(毎朝毎夕、鏡で見てる)
「あ……ごめんね」
 花岡は気まずそうに謝った。
「え! あ、いえ」
 ちがうんです、ごめんなさい、と何故か自身も謝罪を重ねた。
「あの、ただちょっと興味があっただけで、なんでもないので」
 初めよりも更に俯き、少年は椅子から立ち上がった。
「本当にありがとうございました。これ、頂いてもいいですか」
「勿論です」
 フジハラは書誌情報がプリントされた紙片を差し出した。資料を探す作業は基本的に自分で行う。資料検索用のパソコンへと向かう後ろ姿を、フジハラと花岡は無言で見送った。
「失敗した」
 少年が充分に離れたところで、花岡はぐしゃりと前髪を掻き上げた。
「お節介だけど、黙ってられなかった」
 何が出来るかわかんねえけど気に掛けとくことにする、花岡は独りごちた。その意志をフジハラに押しつけてこないところが花岡らしい。そうだな、と生返事をしながら、しかしフジハラは別のことを考えていた。アヅミシオ。
(こいつなら)
 古典と歴史もの、ときどきデイヴ・ペルザーやロバート・D・ヘア、そのうちきっとエンデにケストナー――価値観が、思想の流れが、我がことのように掴める。そして。
 ――父は、もういません。
(本当に、俺を、解ってくれるかもしれない)
 その思いつきは殴打のような衝撃でフジハラを揺さぶった。他人に希望を抱いたのは久しぶりだった。




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