フジハラさんと僕(2)/120517

 セーターとジーンズにツイードのコートを引っかけたラフな格好で、フジハラは出て行った。それなりに上背があるため、史緒のようにコートに着られてしまうことにならないのが羨ましい。
 史緒はといえば、掃除をしていた。フジハラがわざわざ買い物に出てくれているのだ。徒に時間を過ごすのは落ち着かない。まずは玄関だ。三和土を掃いて靴を揃える。史緒のくたびれたスニーカーがフジハラのビジネスシューズと並んでいるのは、何ともすわりが悪かった。
 続いてトイレ、風呂と片付ける。玄関から見て右手にトイレ、左手に風呂が、向かい合わせに配置されていた。バスマットとトイレマットは洗濯機へ放り、床を化学雑巾で拭く。ダイニングキッチンでは流しを念入りに磨く。フジハラの寝室と史緒が寝ているリビングには掃除機をかけた。空気を入れ換えるために寝室とリビングの窓を開けるころには、一休みしたくなる程度に疲れていた。史緒はベッド代わりにしているソファに座り込んだ。
(改めて見ると広いんだなぁ、この部屋)
 ひとりでは持て余しそうな2LDKだ。所有しているにしろ賃貸にしろ、良い値段だろう。
(物も少ないし)
 最低限の日用品は置いてある。しかし、フジハラの趣味や人となりを表すものが無かった。アルバムどころか写真の一枚も飾られておらず、娯楽のための道具もない。どこかへ片付けてあるのだろうか。身元不明の少年をひとりで家に残して平気なのも、それならば多少は頷ける。史緒が金目の物を盗んで逃げてしまうと考えないのか、危機感のなさが不思議だったのだ。
 一方で、そこまでするくらいなら史緒を拾わなければ済んだ話ではないか、とも思う。フジハラには史緒の面倒を見る義理などない。
(どうしてフジハラさんは、僕を居候させる気になったんだろう)
 単なる善意を信じたい気持ちと、裏を勘繰る猜疑心がせめぎ合う。結論は出なかった。
(期待しすぎたらだめだ。人間は、もっと)
 怖いものだ。
 暗い部屋の光景が脳裏に蘇る。そのなかで潤んだ光彩が煌めいている。絡みつくように史緒を見る。三日月型に曲がった口は頬まで裂けた傷のようだった。赤い舌がちらりと覗き、吐息と紛う秘めやかさで呟く。
 ――史緒。これは何なの?
「っいやだいやだ忘れろ!」
 しゃがみ込んで耳を塞ぐ。全身にじっとりと汗をかいていた。
「もう忘れろ……」
 自分に言い聞かせて立ち上がる。体を動かしていないと変なことを思い出してしまいそうだった。掃除の仕上げ、最後の一カ所を、見に行くことにした。
 残る部屋は、浴室とフジハラの寝室に挟まれた場所にあった。フジハラはこの扉について一言も説明をしていない。使っているところも見たことがない。史緒には予感があった。
 金色のドアノブを握る。
 がちんと小さな音がするだけで、ノブは回らなかった。
「やっぱり」
 鍵が掛かっている。
「ここはフジハラさんの、『心地よく秘密めいた場所』……なのかなぁ」
 密室を開きたくなるのは人間の性だ。けれどもそのためには、史緒の密室も開かなければアンフェアな気がした。
(ずっと閉じたままで、いられたらいいのに)
 そのときインターフォンの音がした。思わず身を竦めてしまう。見つかった? まさか。フジハラに用事のある誰かだろう。インターフォンに応対するための受話器を取り上げようとして、やめる。フジハラは友人知人に史緒のことを説明しているのだろうか。下手に応じては迷惑になるかもしれない。とりあえず覗き窓から様子を窺ってみた。
「て、フジハラさん!?」
 フジハラは両手一杯に荷物を抱え、手が振れない代わりに指先を振っていた。
「シーオ、開けて」
 史緒は急いで扉を開けた。フジハラはドアの隙間に身を滑らせ、荷物を降ろす。どさりと重たい音がした。久しぶりにタクシーなんか使った、ぼやきながら肩を回している。
「どうしたんですか、この荷物」
「お前の服と、布団。いつまでもソファにブランケットじゃ寝にくいだろ。寒いし」
 確かに、見ればメンズカジュアルのブランドの袋と寝具がひと揃いが置かれている。
 史緒のものが増えてゆく。じわじわ根を下ろしている気分になる。遠からず追い出されると予想していたのに、これでは――悪い期待をしてしまう。
「フジハラさん」
 絞り出した声は震えていた。
「僕は、いつまでここにいて良いんですか」
 史緒の眉間に痛いほど皺が寄る。
「馬鹿」
 柔らかく額を小突かれた。
「気の済むまでいたら良いよ」
 事もなげに笑った。史緒は泣き出したくなった。フジハラのくれる布団は暖かいだろう。それにくるまって眠る夜は平穏だろう。たとえ騙されているのだとしても、ここはたまらなく心地よかった。



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