おめでとうが届いた日/130127



 夕餉のあと、テレビの音量を絞って耳を澄ます。フジハラはその時間をこよなく愛していた。リビングのソファに座ると背中に当たる、台所は同居人の領分だった。
 同居人こと安積史緒は働き者だ。一緒に暮らし始めて以来、家事炊事を一手に引き受けてくれている。今は洗い物の最中だ。濯ぎを待つばかりの食器が重なってゆく。音で分かった。
 ――片付けくらいは俺がやる。
 フジハラは提案したことがある。
 ――いいんです。家賃や光熱費のぶん、働かせて下さい。
 却って頭を下げられてしまった。手を出すと途方に暮れた顔をされるので、最近は黙って見守っている。必要とあらばいつでも加勢するつもりだ。
(あ。鼻歌)
 声量は小さいが、元気の良い旋律だった。泡を落とす水音に暫し打ち消される。蛇口を締めるとまた聞こえた。史緒の作業は丁寧だ。水切りかごに皿やコップを移してゆく間も煩くない。
 シンク周りを拭き、エプロンを片付けたら一区切りだった。
「シーオ」
 自分の真隣を叩いて示す。
「はい」
 史緒は素直に腰掛けた。膝に載った手からオレンジの香りがした。食器用洗剤の名残だろう。
「いつもありがとな」
「このくらい、全然」
 答えたあと、史緒はまだ何か言いたげだった。「あ」の形をした口元が躊躇している。じっと観察していると、意を決したように「あの」を声に出した。
「実は、フジハラさんにお願いがあるんです」
「どうしたんだ」
「今度、語学のクラスの飲み会があるそうなんです。皆川くんが誘ってくれて」
 飲み会。史緒には馴染まない単語が出てきた。一月半ばのことである。少し遅い新年会だろうか。
「行ってきても、いいですか」
 史緒は強く拳を握っている。もしかしたら同じようなことを切り出しては却下されてきたのかもしれない。
「俺が良いとか悪いとか言うことじゃない。……飲み過ぎるなよ、未成年」
 ぽんと頭に手を載せる。史緒は花の開くように笑った。
「飲まないですよ」
 ありがとうございます、と噛みしめるように呟く。この史緒が、飲めと勧められて断れるだろうか。どこの馬の骨とも知れない学生に酔わされては堪らない。皆川少年の連絡先を聞いて、重々頼んでおくべきかもしれない。
「因みに、合法で飲めるようになるのは?」
「ちょうど一年くらい先ですね。この間十九歳になりましたから」
 その一言にフジハラは凍り付いた。
「いつの話だ!」
 噛みつく勢いで質した。史緒は僅かに身を引く。
「えっ。えっと、今月の、九日に」
「ああああ。もう五日も前か……!」
 迂闊だった。思わず片手で顔を覆う。史緒が倒れているのを発見したとき、フジハラは大学の学生証を確認している。けれど正確な生年月日は記憶していなかった。
「え、あ」
 大きな目が、はたりとひとつ瞬きをした。唇が酸素を求めるように戦慄く。
「ごめんなさい」
 史緒はか細く告げて、息を呑んだ。
(失敗した)
 悟ったときには遅かった。分かっていたことではないか。誕生日だから祝ってくれなんて、史緒が簡単に言える訳がない。そもそも現実に誕生日を祝うという発想があるのだろうか。
 喉の動きにつれ嚥下されたのは、伝えることを諦めた言葉だ。
「ごめん。お前を責めてるんじゃない」
 フジハラは史緒を抱き寄せた。史緒の身体は竦んでしまって動かない。抗うような力が籠もるのを、強いて押し切った。
「悔しいんだよ」
 硬直した肩をゆっくりとさする。
「当日は逃すわプレゼントは無いわ。よりによってお前の誕生日が過ぎてたなんて格好が付かないったらない」
 好きな子の誕生日なのに。耳元で打ち明けた。史緒の耳朶が桃色に染まる。恐る恐る、フジハラのほうに目を向けてくれた。
「僕は、お祝いして貰えるなんて、思ってもみなくて」
「うん」
 史緒は一生懸命に言葉を探していた。
「だけど、あの日はフジハラさんと過ごせました。それだけで充分だったんです」
 今度は飲み込まずに言い切った。フジハラは瞳を細めた。
「欲が無いね」
 フジハラの両親もこんな気持ちだったのかもしれない。蝋燭を立てたケーキとご馳走を並べ、隠してあったプレゼントを出して来る、絵に描いたようなお祝いをしてくれる両親だった。大きくなってからは子供扱いをされているようで気恥ずかしかった。けれど普段は息子を甘やかさない二親が、存分に成長を言祝いでくれることが嬉しかった。一年の間に出来るようになったこと、頑張ったことを、彼らはよく覚えていた。
(不思議だ)
 父と母の思い出を凪いだ心地で思い返している。少し前ならばあり得なかった。膿んでいた傷は、跡を残しながらも癒えようとしている。不意に清々しい寂しさに襲われた。
 閉塞を打ち破ってくれたのは史緒だ。
「俺の方が欲張りなんだよなあ」
 フジハラは史緒の頭を撫でながら、携帯電話を開いた。
「すみません。今から二人で入りたいんですけど、席はありますか」
「フジハラさん?」
 フジハラは任せておけと片目を瞑る。
「はい。十五分くらいですかね……それから、記念日のサービスって今もやってらっしゃいますか? ああ、良かった。宜しくお願いします」
 首尾は上々だ。通話を切った。
「よし、行くぞ」
「どこにですか」
 史緒の手を引いて立ち上がる。
「近所の居酒屋。美味しい晩飯は頂いたから、軽く乾杯するだけな」
 目を白黒させている史緒にマフラーを巻いて、コートを渡す。
「お祝いと、お前の初飲み、しよう」
「えっ、おっ、お酒は二十歳になってからですよっ」
 突っ込むところはそこか。自分にはなかった実直さが微笑ましい。
「じゃあソフトドリンクで付き合って。初居酒屋」
 史緒にはこれから多くの体験が待っているだろう。全てを共にすることはとても出来ない。
「せめてお前の初めては、なるべく俺が奪っとくんだ」
 精神衛生を鑑みていま決めた。まずは件の飲み会に先手を打つのだ。
「ううう奪う」
「シオ。覚えておいて」
 両手で頬を捉える。史緒の睫毛が間近で揺れた。
「誕生日は大事にしたいのは、生まれて来てくれたことに感謝したいからだよ」
 史緒は眉を八の字にした。感謝される所以がないとでも考えているのだろう。困り顔も可愛いけれど、時間が掛かっても信じて欲しい。フジハラは史緒から多くのものを与えられているのだ。貰うだけでも、差し出すだけでもない。お互いさまだと思える相手に出会うことができた。
「おめでとう」
(お前も、俺も)
 唇を寄せる。閉じてゆく双眸に光を見た。きらきらと星の瞬く音が聞こえた気がした。



(了)




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