フジハラさんと僕(6)/120617

 フジハラが本を読んでいる。椅子に寄りかかって足を組み、真っ赤なハードカバーの紙面を目で追っている。薄暗がりのもとで傾いた頬が白く透け、陶器のようだった。
(夢、かな)
 目蓋が半分くらいしか開いていない気がする。手足が重たい。震えが止まらない。顔だけが熱い。
「起きたのか」
 フジハラは切れ長の瞳を瞠って、次に仕方がないなというように笑った。手が伸びてくる。額にそっと触れられた。
「まだ熱がある。もう少し寝てな」
「ふじはら、さん」
 なに、とあやす調子で呟きながら、額にあった手がそのまま頭を撫でてくれる。史緒はゆっくりと瞬きをする。フジハラの姿を睫毛がジグザグ遮った。書籍の赤ばかりが鮮やかだった。
「本、が」
 好き、と背表紙を指さした。その左手はすぐに布団のなかへ戻される。
 訊きたいことがあったのだ。ぼんやりした頭のどこかで思う。どんなことだったっけ。
「好きだよ」
 史緒は根拠のない安堵を覚えた。だんだんと目が開けていられなくなる。そのとき彼がどんな顔をしていたかは分からないままだった。


 フジハラが本を読んでいる。椅子に寄りかかって足を組み、真っ赤なハードカバーの紙面を目で追っている。天井まである古びた本棚を背にして、傾けた頬は陰りを帯び、モノクロ映画のようだった。
 人気(ひとけ)のない、そこは書店だった。棚にみっしりと詰まった本が変色した木の床を軋ませている。並んでいるのは、最後に読まれたのはいつなのか見当も付かない書物ばかりだ。
 棚と棚の隙間に設置されたレジカウンターのなかで、フジハラの姿は朦朧としている。暗さのためばかりではない。史緒は凝らすように見る。歩み寄る。フジハラの瞳が史緒を見上げた。
 フジハラの目は水だった。
 瞳の中に水が満ち、気泡が浮かび、時折魚影が横切っている。目だけではない。よく見れば肌も水だった。頬や手足や首筋に波が起こり、海藻がそよいでいる。魚の形は歪だった。深海魚だ。フジハラが身じろぐとスイと身を翻し、その度にフジハラの輪郭が揺らぐ。餌の少ない海を生きる彼らは口を開けたまま泳いでいる。泳いでいる最中、偶然に落ちてくる死骸を逃さないように。鋭い歯を持つものも多い。捕らえた獲物を逃さないように。魚たちは貪欲に、フジハラの中に浮かぶものを喰らい尽くしてゆく。
 餌になっているのは字だった。
 ぬやワやqや3や孤が水流で舞い上がっては魚の口へ消えてゆく。史緒は焦燥に駆られた。このままでは失われてしまう。手を伸ばす。
「フジハラさん」
 途端ユメアンコウが横切り、黒いぶよぶよとした体の中にシとオを飲み込んだ。生ぬるい粘膜と牙が史緒の全身を覆った。それでお終いだった。


 嫌だ、と叫んだつもりが音にならなかった。喉が枯れている。史緒はベッドの上で跳ね起きた。体中にべっとりと汗をかいている。肩で息をしながら掴んだ肘は、いつの間にか私服から寝間着になっていた。
(フジハラさんのベッドだ)
 玄関の前で座り込んでしまったことは覚えている。その後の記憶が曖昧だった。おそらく仕事帰りのフジハラに発見されたのだろう。
(熱なんか出して。またフジハラさんの手間を増やしてる)
 悔しかった。眉根が深く寄る。枕元に置かれている椅子は空っぽで、触ってみると冷たかった。フジハラはどこにいるのだろう。眩暈の残る頭を押さえて布団を抜けた。リビングへ通じる扉に近寄る。声が聞こえた。
「そこをなんとか。明日一日でいいから頼むって」
 フジハラだった。誰かと電話をしているようだ。なんとなく出て行くことが出来ず、扉の前で立ち往生してしまう。
「ハナ。ハナちゃん、ハナさん、ハナ様! この通り!」
 電話の向こうの相手に頭も下げんばかりだ。ハナ。初めて聞く名前だった。暫く低姿勢の相づちが続く。そのうちふっと笑う気配があった。
「悪いな。愛してるぜ」
 心臓が痛いほど跳ねた。冗談めかした言い方に籠もる一抹の真剣味が耳に毒だった。反射的にベッドに駆け戻る。布団を頭まで被る。
(恋人?)
 少なくとも大事な人間なのだろう。それは確信できた。言葉の端々に、馴染んだ相手への甘えが滲んでいた。あんなふうに人に凭れることもあるのか。
 良いことは終わる。悪いことは終わらない。それが史緒の経験則だ。自宅に居候がいるのでは、ハナという誰かとの付き合いもし辛いだろう。こんなふうに迷惑ばかり掛けていて、返せるものもないままでは、本当に追い出されてしまう。熱が下がるまでは待ってくれるかもしれないが、きっとそれまでだ。
(どうしよう。どうしようどうしよう)
 この生活もやはり終わるのか。だけどそれでも、と思い直す。少しでも、少しでも長く置いて貰いたい。ここは今までで一番、ありのままの史緒でいることが許される場所なのだ。
 引き替えに何が差し出せる。何なら。
 ドアが開く音がした。フジハラはベッドサイドに腰掛け、布団から零れた史緒の髪に触れた。様子を窺っているらしい穏やかな仕草が、嬉しくて惨めだった。
「フジハラさん」
 耐えられずに布団から顔を出す。
「起こしたか? 悪い」
「いいえ。自然に、目が覚めただけです」
 フジハラの手が首筋に当てられる。額には熱冷ましのシートが貼られており、そこでは熱が測れないのだ。さっきよりは下がってるみたいだな、呟くフジハラの手のひらが史緒の首の半分を包んでいる。体が竦む。
「お前ね」
 触感を残して指が離れた。呆れた調子で、額を小突かれる。
「雨に降られたんなら、傘を買うとか、どっか店にでも入るとかしろよ。真冬だぞ。肺炎でも起こしたらどうするんだ」
 心臓に悪い、フジハラは息をつく。心配してくれているのだと理解はできるが、叱る調子に涙腺が緩みそうになる。いろいろなことが重なって気が弱くなっているのかもしれない。
「ご、ごめんなさい」
 声が震えを帯びる。哀れを乞うようで情けない。
「迷惑をかけて」
「迷惑って」
 言葉を返そうとするフジハラの腕を掴む。そこに力を掛けて、半身を起こした。
「そのぶん何かを……したいんです。だけど僕は、何も持っていません」
「シオ? 起きて大丈夫なのか」
「だから、フジハラさん」
 結局差し出せるものなんて限られている。
「僕、は、要りませんか」
 最初はそうやって稼ぐことを考えたのだ。じっと見つめてみたけれど、色目など到底使えない。悲壮でしかなかった。捨てられた犬の、縋るようなそれだ。フジハラはじわりと眉を顰めた。
「シオ。そういうのは駄目だ」
 険のある声だった。
(軽蔑された)
 確かに成人も間近の男が相手では、多くの男性は嫌悪感を持つだろう。何故かフジハラならば大方のことを許容してくれると思い込んでいた。フジハラの目が怖いのに、指先が固まってしまって腕を放せない。
「ごめ……っ、ごめんなさい! そうですよね、気持ち悪いですよね、ごめんなさい……!」
 泣き出してしまいそうで俯いた。馬鹿だ。馬鹿だった。馬鹿をしてしまった。
「待てよ。気持ち悪いわけじゃない」
 声の響きが和らぐ。フジハラは椅子代わりにしていたベッドに片足を乗せ、少しだけ史緒の近くへ動いた。柔らかく頭を撫でてくれる。
「き、気を、遣わないで下さい」
「遣ってないよ」
 嘘だ。言葉にはしなかったものの、頑なに頭を振る。フジハラは少し笑ったようだった。
「あのなあ。俺はバイだから」
 淡々と言われた。史緒は耳を疑った。
「出来るかどうかって言うなら俺はお前と出来るけど、もっと自分を大切にしろってこと」
 これでもかというくらい見開いた目が痛かった。瞬きを忘れていた。顔を上げるとフジハラはいつもと変わらず飄々としていた。
 えらく簡単に――何を、言った。
「シオ?」
 黙ってしまった史緒を、衒いなく覗き込んでくる。史緒の唇が戦慄いた。ほとんど意図せず呟いていた。
「僕は、ゲイです」
 フジハラは息を呑んだ。けれども暖かい手が史緒の後頭部から退いていくことはなかった。
「それが母に知られて、家にいられなくなりました」
 これで本当に軽蔑されるかもしれないと思う一方、安心もしていた。重すぎる荷物をやっと肩から下ろした気分だった。



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