フジハラさんと僕(7)/120626

 そのことを思い出そうとすると鳩尾が痛む。
「携帯電話の、ホームページの閲覧履歴を見られたんです。ゲイ向けのSNSや、ブログなんかのアドレスが残ってた。僕がそこで何をしていたというわけではないんですが」
 参加する勇気は出なかった。たまに覗いては雰囲気を味わい、自分が一人ではないということを確認できれば充分だった。
「迂闊でした。いつも全て消していたのに」
「待てよ。普通、大学生の息子の携帯電話をそんなに頻繁にチェックするか?」
 母は――小夜子は、当然にそれをした。史緒の目前であろうが関係なかった。まるで自分の携帯電話を見るように見た。通話履歴を、メールを、ブックマークを。
「普通じゃなかったんです」
 湧いてくるのはただ諦念だった。十数年をかけて、仕方ないのだと飲み込んできた事実だ。
「母には、僕と仕事しか無かったんです」
 だから固執した。
 訳知り顔の大人が言っていた。結婚当初は誰もが羨むような夫婦だったのだと。可愛らしい花嫁、男ぶりのいい花婿、両家の仲も悪くない。しかし交友関係の広い男にとって、小夜子の束縛は窮屈すぎた。小夜子は夫が、自分以外の何かに目をやるたびに酷く嫉妬した。
「父が家を避けるようになって、そのうち希望して単身赴任になって、最後に離婚届を突きつけられて……その間に段々と、母はおかしくなって行きました」
 史緒には父親の思い出がほとんどない。いざ離婚となったときも生活に変化はなかった。男の不在について法律上の手続きが伴った、それだけだった。その頃には小夜子はすっかり歪に笑う女になっていた。
 手の施しようがないワーカホリック。仕事ができない時間は史緒に注がれる。他には何もない。
「その日は珍しく母の帰りが早かったんです。僕が夕飯を作ろうと台所へ降りたら、電気も点けないままそこにいた」
 暗い部屋のなかで潤んだ光彩が煌めいている。絡みつくようにこちらを見る。三日月型に曲がった口は頬まで続く傷のようだった。赤い舌がちらりと覗き、吐息と紛うささやかさで呟く。
「史緒。これは何なの?」
 小夜子は膝の上に組んでいた右手を顔の脇まで上げた。器械運動のような無駄のない動きだった。手のひらの中には史緒の携帯電話が収まって、ぼんやりと光っていた。小夜子の顔が照らされ青白く浮かぶ。知られた、史緒の背筋に冷たいものが走る。一番知られたくない相手に知られた。
「偶然見たの? 興味があるの? それとも――」
 小夜子は口をつぐんだ。アーモンド型の瞳が握りつぶした粘土のようにぐにゃりと弧を描いていた。何か答えなければと頭では分かっているのだが、唇が痺れて動かない。否定も肯定もできなかった。
 ゴゴン。フローリングの床に携帯が落下する。小夜子の細い指が緩く開かれ、一二度痙攣した。
 イヤア、
 後から思えばそう言ったのだろう。
 そのときは怪獣の遠吠えにしか聞こえなかった。ギ、ギャ、ア、と、それは小夜子の小さな体から迸った。裂けんばかりに開いた口で咀嚼されてしまうと思った。このまま固まっていてはいけない。しかし嫌な汗の滲んだ体は史緒の思い通りに動いてくれない。
「どういうこと、どういうこと、どういうことよおおおおう」
 爪先がやってきた。ストッキングに包まれた爪が腹にめり込んだ。予想はしていたものの受身が取れるわけでもない。史緒は床に崩れ落ちる。爪先は何度もやってきた。絶叫と一緒にやってきた。どういうこと。どういうこと。ガツン。気持ち悪い。ガツン。汚い。ガツン。気持ち悪い、気持ちガツン悪ガツンガツンガツンがつん。がつん。
 醜い。
 史緒の口元から唾液とも胃液ともつかない液体が飛び散る。こんなにも血走った目で見られるのは高校受験のとき以来だ。三者面談で担任から「希望の学校は難しい」と言われたとき、小夜子は玄関を閉めた途端にこんな目で史緒を見て、右手に持っていた傘でやはり腹を突いた。どういうこと、耳に木魂する声もそういえば同じだった。
 あの頃住んでいた家は、史緒の部屋に鍵がついていた。最悪の場合は逃げ込める場所があった。
 今の家にそんなものはない。そしてここは台所だ。道具にも――事欠かない。
 爪先がまたやってきた。内蔵が形を変えるのが不快だった。ガツンガツンいやよいやガツン。小夜子の手はまだ空っぽだ。しかしいつ何を握っても不思議はない。
(殺される)
 今度こそ。それが現実味を帯びたとたん史緒は叫んでいた。あ、あ、あ、あ、あ、あ、一瞬の雄叫びがまるでスローモーションのように感じられた。小夜子の足を必死で避ける。打つべきものをなくした足が空転し、小夜子は体のバランスを崩した。小夜子の目が更にぎちぎちと瞠られる。いま逃げなければ。史緒は体液でぬめる床を四つんばいで動いた。ぐちゃぐちゃにかき回されたような腹は無視した。帰宅したときのまま置いてあるリュックとコートをひったくる。
「待ちなさい」
 悲鳴が背中にぶつかる。小夜子が伸ばした指が史緒の手を掠める。そこから毒が回ってくるようで史緒は喘いだ。ひいひいと喉が鳴る。走った。スニーカーをつっかけて玄関を開け後ろから来ているだろう小夜子に構わず渾身の力で閉めた。行く宛てなどないいまま走った。待ちなさい。待てない。足音が反響して小夜子のものと自分のものとが交じり合う。肩越しに振り返る。逆光で小夜子の表情は良く分からない。餓鬼のような大きな白目、振り乱した髪、その奇怪な輪郭だけが浮かんでいた。自分がこんなにも速く走れるなんて知らなかった。いつしか追う声は聞こえなくなっていた。



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