フジハラさんと僕(8)/120629

「その日は公園で夜明かしをしました」
 公衆トイレの中だった。個室に籠もって鍵を閉め、自分に言い聞かせた。朝までだ。明日の朝まで見つからなければ、別の町に逃げられる。小夜子は何があっても仕事は休まない。
 公園に入ったところは誰にも見られていないはずだ。万一ここにいることがばれても、個室のドアと天井の隙間は狭い。乗り越えることは不可能だ。安全の根拠を挙げて平静を保とうとする。それでも小夜子の足音が聞こえてきそうで恐ろしかった。微かな物音さえも聞きつけられる気がした。おかしな音が伴う呼吸を今すぐ止めたかった。せり上がってくる胃液は無理やり飲み下した。どうしても耐え切れなくて吐いてしまったときは、終わりだと思った。
 永遠とも思える時が過ぎ、登校する子供たちの声が聞こえてきたとき、史緒はぐしゃりと床に座り込んだ。
「はは」
 は。あはははは。震えが止まらなかった。頬が濡れていることに気がついたのは随分後になってからだった。
 史緒はふつりと言葉を切る。話はそれで終わりだった。淡々と語ったつもりなのに、フジハラは眉根を寄せていた。自分のためにそんな顔をして貰うのは勿体ない。だから史緒は笑った。フジハラは益々痛ましそうにする。
「シオ」
 はい。いつもの通りに返事をする。フジハラの腕が伸びて来た。何だろう、と思っているうちに抱きしめられていた。
 人に抱きしめてもらうのは何年ぶりだろう。フジハラの清潔なシャツの襟口が、形の良い鎖骨が、目の前にある。拘束するでもなく、無関心でもない触れ方だった。史緒は熱で疲弊した体をことんと預けた。
「母は僕を、きれいな球にしたかったんです」
 勉強ができて、運動ができて、明るく、リーダーシップがあり、いい学校へ通っていい就職先を見つけて育ちのいい女性と結婚して子供を作って出世をする、孝行息子だ。史緒が史緒の速度で歩くことは許されなかった。いつも母の胸中を窺って縮こまっていた。雛形の通りにできなければ、躾けられることになる。
 旦那さんがいなくて大変だけどこんないい息子さんがいるのはあなたが頑張った結果ね、そう認められたかったのかもしれない。
「僕は歪で、その度に母は形を整えようと躍起になった」
 潰れた紙風船を丸く戻したがった。外側から力を加えてどうなるものではないのに。
「中でも同性愛者であることは、きっと絶望的なほど大きなへこみだったんです」
「デコボコが全くない人間なんていない。セクシャリティがどうであれ、他人に迷惑かけてないなら何の問題がある」
 泣きたくなる。フジハラのシャツを緩く掴む。フジハラは叱らないで受け入れてくれる。
「それでいいんだよ」
「……ごめんなさい」
「またお前は謝る」
 ハの字になった眉の真ん中を、人差し指で突かれる。
「俺が怒ってるって自己申告でもしない限り、謝るなよ。むしろもっとおねだりしてみな」
「おねだりって」
 どんな表現だ。
「丁度いい材料があるだろ。レポート」
「どうして……!」
「びしょ濡れのお前を着替えさせるときに、構想メモを見つけてしまいました」
 フジハラはおどけて見せる。
「参考資料が欲しいんじゃないか? でも外出は最低限にしたい」
 その通りだ。史緒はうううと小さく唸る。
「お願い借りてきて。ハイ唱和。そしたら二三日中に揃えてやるよ」
「そ、な、でも、だって……!」
 だいたい図書館に置いてあるだろうと事も無げに言うが、フジハラには仕事がある。普段の出勤や帰宅の時刻を考えると、開館時間内に図書館へ行くのは難しいはずだ。早退や遅刻をさせたり、昼休みを削らせるなんてとんでもない。
「そのまま潤んだ上目遣いで言ってみ」
 軽く頬を撫でる指に促される。誰がそんな目つきをしてますかとツッコミたかったが、間近にあるフジハラの顔があんまり楽しそうなので否定できなかった。思考が熱とフジハラの笑顔で混迷してゆく。きちんと頼んだらレポート用の資料が手に入る。本が読みたい、折角書くなら良いレポートに仕上げたい、とにかく必要なのだ。だから。
「本当に、絶対に、迷惑ではないですか」
「本当。絶対」
 面白がっているフジハラを決死の覚悟で見つめる。
「うう」
「せえの」
 乾き切った喉に息を吸い込んだ。
「おねがいします、……て、下さ……っ」
 やはり怖くて、掠れた声しか出せなかった。小さく咳き込む。フジハラの手が背中を叩いてくれる。
「いいよ」
 答えは簡潔だった。
「後で必要なタイトル書いて寄越しな」
「ごめ」
 んなさい、とは最後まで言えなかった。フジハラが史緒の顔を自分の胸板に押し付けたからだ。ぶは、と間抜けな息が漏れる。
「シーオ。そうじゃないだろ」
 本当に、絶対に? つい口を突く詫び言はもう習い性で、脱却するには時間と勇気がたくさん必要だ。
「ありがとう……ございます」
 躊躇いながら言い直すと、今度はオーケーが出た。
「偉い」
 髪をぐしゃぐしゃにされる。人肌の温もりが癖になりそうだった。



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