フジハラさんと僕(9)/120710

「安積、課題どのくらい進んだの」
 惣菜パンをくわえたまま、皆川が訊いた。
 このところ皆川は、史緒の来店とともに休憩時間に入る。愛嬌があって普段が働き者の皆川だから通せる希望だろう。部外者である史緒がいるため、店内から出て裏口にあるベンチで昼食を摂る。そんな風にさせてしまうのが申し訳ない、と言ったら、皆川は困ったように首を傾げた。安積話すの楽しいからいいんだよって、ぜったい信じてくれないね? 史緒は何も答えられなかった。
「資料を読みながら、どんなふうに纏めるか考えてるところ」
「おれ、きっとはじめるの年賀状書いたあとだよ。提出年明けって罠だよね。油断する」
 フジハラは、本当に参考資料を揃えてきてくれた。リビングの床に丁寧に降ろされた書籍に、史緒は目を輝かせた。本だ。しかし喜ぶのは不謹慎だと思い直す。仕事の後で疲れているだろうに、運ばせてしまった。
 ごめんなさい。
 言いかけてやめる。フジハラがこちらを注視しているのがわかった。愉快そうな、試すような目で。
 ――あ、あ、ありがとうございます……っ。
 俯きそうになる顔をきっと上げた。
 ――ん。報われました。
 応えてフジハラは、頭を撫でてくれた。最近どうやら撫で癖がついている。フジハラの手のひらの感触が蘇り、史緒は一気に赤面してしまう。
(何だろ。おかしい)
「安積? まだ熱ある?」
 目の前で手を振られ、ようやく我に返る。熱はすっかり下がったのだが、フジハラの挙措動作が史緒をものすごくどきどきさせることがあるのだ。
(この間までこんなこと無かったのに)
 誰かの意見を聞いてみたかった。人と深く関わった経験がない自分だけで考えたところで答えが出ないことは明らかだった。
「あの」
 ぐっと拳を握り込む。緊張していた。
「皆川くん、好きな人とか、いる……?」
「いまはいない」
 ナニナニそういうはなし、と皆川は乗ってきた。我ながら子供っぽい問いかけをしてしまった。益々頬が熱くなる。
「スキナヒトいるの? 聞く聞く」
「えっと……ずっといい人だって思ってたひとを、いきなりそういう意味で好きになるとかって――あるのかなあ」
 しどろもどろに説明する。皆川はじっと続きを待っている。
「だって今までもいいところを知っていたのに、ある日突然どきどきするなんて、何かの間違いみたいで」
 指先のパンくずを舐めて拭って、皆川はベンチを飛び降りた。コンクリートの上でしゃがんだ。下を向いてしまった史緒の前に笑顔が覗く。
「おれ、あたまわるいから、うまく説明できないけど」
 皆川はエーイと史緒の鼻先をつついた。
「今のね、安積なんかかわいい。まっかで、ヒッシだ」
「う、ええ?」
 皆川をまともに見られなかった。
「だからね、きっと恋でいいんだよ」
「そう……なのかな」
「おれの勘は当たるよ!」
 フジハラユキヒト。二十代後半、一人暮らし、在職だが職種は不明、車の免許を持っている。そのくらいしか知らない。けれどそれ以上に、優しい人だと知っている。
 皆川に保障されてなお、自分の気持ちの意味に確信は持てなかった。ただどんどん好意が強くなることは確かで、あの人に出会えたのは幸運だったと思う。
「でもそしたら、いきなり失恋だ」
「なんで?」
「恋人、いるみたいだから」
 「ハナ」に対して抱く、胸を塞ぐようなこの気持ちは嫉妬なのだろう。あのひとに頼られたり、大事にされたりできる立場が羨ましいのだ。フジハラのことだから相応の相手なのだろう。押しのけて自分がとまでは考えられない。
「さっさと諦めたほうがいいのかなあ」
「諦めたいの? 安積は」
 出来る限りさばさば笑ったつもりが、皆川は笑い返してこなかった。真っ黒な、大きな目に見据えられるのは迫力があった。
「おれの友達、彼氏いる女の子を振り向かせたヤツいる。あと、別れるのを待って待ってアタックしたヤツも。どんな相手でも、好きになったら三ヶ月はアプローチしてみるってルール作ってるヤツとか」
 指折り数えてみせる。
「安積がね、ほんとに辛そうだったらおれ止める」
 だってやっぱ恋人いる相手ってキツいもんね、皆川はひとり頷いている。経験があるのかもしれない。
「けどさっきの安積はいい顔してるなあって思ったから。そんなカンタンに棄てないでいいんじゃないの」
「いいのかな」
 恋なのかどうか、恋であるとすれば断ち切るべきかどうか、選ばなければならない気がしていた。
「べつにどっちかに決めなくたっていいとおもう」
「……そっか。じゃあ、まだ棄てなくて、いいかな」
 もう暫く味わっていいなら嬉しかった。史緒にとって、人間はなべて恐ろしいものだったのだ。こんなふうに穏やかに誰かを想う日が来るなんて予想だにしなかった。
「ハナシいつでも聞くから。泥沼になったらもうやめなって言うし」
「あはは。ありがとう」
 腰を伸ばした皆川は、見慣れないものであるかのようにまじまじと史緒を見た。
「安積、またちょっと変わったね」
「え」
 顎に手をあて、学者よろしく観察される。身の置き所に困ってしまう。
「たぶんソノヒトにいい影響受けてるんだね。棄てないのがいいよ、安積。おれ動物みたいってよく言われるから安心だよ」
 皆川が言うと妙な説得力があった。
「と、そろそろ休憩終わりっ。ケーキ取りに行こう、ケーキ」
 そうだった。言われて思い出す。
 今日はクリスマス・イブなのだ。予約していたケーキが届いている。食べるのはふたりなので、やや小さめのホールケーキを選んだ。ディナー用の食材も揃えてある。あとは帰って腕を振るうばかりだ。
「はい。千八百円になります」
 バックヤードから取り出してきたビニルに白い箱が収まっている。念のためと保冷剤も付けてくれた。
「フジハラサンによろしく。メリークリスマス!」
 皆川は大きく手を振って見送ってくれた。メリークリスマス。史緒も戸惑いつつ合言葉を唱えた。そうだメリークリスマスだ。今日はクリスマスを祝うひとりになれる。
(緊張するなあ)
 探りを入れてみたところ、フジハラは今夜は遅くならずに帰ると言っていた。種類はどうあれ好意を持っている相手とクリスマスを過ごせるというのは、初めてのクリスマスとしては上等なのではないだろうか。
 駐めてある自転車を目指して駐車場を横切る。窓ガラスにホワイトデコレーションを施した車もちらほらある。街もすっかりクリスマスだ。ステアリングを握るフジハラの指が、細く長く乾いていたことを不意に思い出す。水気のない手は硬質な印象で、体温も低そうに見えた。実際にそれは低かった。熱を測られたときの、心地よい冷たさで知った。
(気持ち良かった、なあ)
 人の温もりが間近にあるということが。出来るならもう一度抱きしめて貰いたかった。そう考えることは恋なのか、とまた思考が振り出しに戻る。本の中では恋か友情かなんて大抵はっきりしている。好きな人ができたらすぐにそう分かるものだと思っていたのに、現実はそうでもないらしい。
(だけどまだ一緒にいてもいいみたいだから。そのうちに答えも出せる、かな)
 とりあえず当面は、フジハラのために美味しいフライドチキンを作ることが一番の仕事だ。
 帰宅したらすぐ準備にかかろうと手順を反芻し始めた、その瞬間だった。
「史緒」
 ひやりとした指が史緒の手首を包んだ。太い血管を親指がくっと押しつける。細く、しっとりとした、指。真っ白なそれと同じくらい血の気が失せた史緒の唇は裂けそうなほど開き、けれども叫ぶことはできなかった。体中が麻痺していた。力の抜けた指からビニルが滑り落ちる。箱はあっさり歪み、スポンジがコンクリートに負ける濁った音がした。
「見いつけた」
 小夜子が笑った。



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