フジハラさんと僕(3)/120520

 水菜か、小松菜か。それが問題だ。史緒はかれこれ十数分考え続けていた。
(この間作った小松菜の煮浸し、気に入って貰えたみたいだった。でも、水菜はもっと気に入って貰えるかもしれないし)
 このところ、史緒は近所のスーパーで買い物をするようになった。仕事帰りのフジハラに任せきりにすることに気が咎めたのだ。外出への恐れはあるが、フジハラのマンションの周辺は史緒に馴染みのある土地ではない。曜日や時間帯に気を遣えば問題はないと判断した。
 格好も気を遣っていることのひとつだ。フジハラが選んでくれた服を着て、フジハラに借りた帽子とマフラーを身につけると、以前とはかなり雰囲気が変わる。元々身なりに清潔さ以上の頓着をしなかった史緒である。中高生に間違えられることも多かった。しかしフジハラが買ってきた服は落ち着いた色調とデザインで、童顔な史緒でも年相応に大学生か新社会人くらいには見える。
(うん、やっぱり水菜に挑戦してみようかな)
 ひと束を買い物かごへ入れる。誰かが美味しく食べてくれることを想像して食材を選ぶ自分に、実感が追いついていない。浮ついた足取りでレジカウンターにカゴを出す。
「お願いします」
 お預かりします、と応えてきた声は珍しく男性のものだった。スーパーの会計といえば女性が担当しているイメージが強い。好奇心が疼いて顔を上げると、さらに珍しいことに、史緒よりもやや背の低い青年がバーコードリーダーを握っていた。やけに訝しげな表情だった。
「あの。違ってたらスミマセン」
 青年はおずおずと口を開いた。
「もしかして、安積じゃない?」
「えっ」
 まじまじと青年の顔を見る。真っ黒な短髪を、前髪だけ輪ゴムでちょんまげにしている。黒のティーシャツにジーパン、真っ赤なエプロン。人懐こそうな大きな目がじっと史緒に視線を返してくる。
「やっぱり安積だ、ちょっと雰囲気変わってるからびっくりした! おれ、英クラで一緒だった皆川。忘れちゃった?」
 これこれ、と皆川は左手を肩の高さに上げ、右手で何かの弦を爪弾くような仕草をした。それで史緒は一息に、大学に入学したての今春のことを思い出した。
「皆川くん、ベースが好きな……!」
「やっぱり! 久しぶりー!」
 史緒の大学の英語のクラスは、学部学科に関係なく二十人ほどの学生で編成されていた。一年次の必修科目、ほとんどの学生が最初に受ける授業でもあり、自然に簡単な自己紹介を英語でしよう、という流れになる。
 皆川はそこで、アイラブベース、とまったくのカタカナ英語で言ったのだ。ノーミュージックノーライフ、どこかで聞いたようなフレーズを付け加え、椅子に片足を乗せてベースをかき鳴らす真似をしてみせる。パフォーマンスは大いに受け、人当たりもよい皆川はすぐに人気者になったのだった。史緒はその賑やかさに常々圧倒されていた。ほとんと会話はしたことがない筈だ。
「ここで、アルバイトしてるんだ」
「そ。おれこの辺に住んでるの。安積も?」
 話しつつもレジ打ちを再開する。手際のよさを見るに、昨日今日始めた様子ではない。
「う……ん、まあ」
 歯切れの悪い答えになる。皆川は気にならなかったようだ。そうかそうかと得心している。
「最近ガッコ来てる?」
「ん、と、あんまり……」
 やはり曖昧に濁すことしかできない。
「じつはさ、おれもマトモに行ってない。ここのほかに楽器屋のバイトもやってんの。ハニーにお金がかかるから」
「彼女」
「んーん。ベース」
 皆川は満面の笑みを浮かべる。まさに熱愛中の恋人について話しているような満ち足りた顔だ。
「二千百三十五円です」
「あ、はい」
 かごいっぱいに買った割に安い。小ぢんまりとしたスーパーは品揃えこそチェーン店に負けるものの、置いてある品物の質は申し分がなかった。しかし知った顔がいるとは思いがけないことだった。今の状況を深く詮索されては困る。今後は使わないほうがいいのかもしれない。
 皆川は史緒の三千円を受け取り、お釣りを出しながら周囲を見回した。平日の昼間のことだ。客は少ない。ヒミツ、と言うように人差し指を立てる。
「コレ、おまけ。どうぞゴヒイキに!」
 二十パーセント割引券だった。史緒の気持ちはぐらりと揺らいだ。


(ご贔屓に、かあ)
 買ってきたばかりの水菜をまな板に乗せながら、史緒は小さく息を吐いた。
 キッチンの床に降ろした買い物袋は、冷蔵庫に入れたものの分だけ余裕ができている。調味料の間から二十パーセントオフの文字が覗く。
(二割引は大きいよなあ)
 何せ全面的に生活費を賄って貰っている身である。食料品その他諸々が安くなるのは非常にありがたいことだ。雰囲気の良い店、自分を知る人と顔を合わせるのは気まずい、二割引。メリットとデメリットが思考回路を巡る。
 タイマーをセットしておいた炊飯器が、くつくつと小さな音を立て始めている。米が蒸されていく香りがキッチンに広がる。水菜は食べやすい大きさに切って冷水に浸した。油揚げ、ちりめんじゃこ、生姜は刻んでかりかりに煎る。水菜をザルに上げて水を切り、油揚げとちりめんじゃこを合わせ、生姜と醤油ベースのドレッシングをかければ、水菜サラダのできあがりだ。
「醤油のいい香りがする」
「わああっ」
 思いがけず背後から声がした。史緒は包丁を取り落としそうになる。全く気配に気付かなかった。
「ふっ、ふじはらさん……っ」
「シーオ、言っとくけど俺はちゃんとただいまって声かけたぞ」
 鼓動が駆け足になっている。
「おっ、お帰りなさい!」
 辛うじて約束は守る。考え事をしていたせいで聞こえなかったらしい。
「はいタダイマ」
 ほぼ同時に炊飯器が高い音を立てた。炊飯が終わった合図だ。フジハラがコートとマフラーを寝室へ置きにいく間におかずを並べ、食卓を整えた。サラダのほかに、豚汁、カレイの唐揚げ、里芋と蒟蒻の煮物が用意してある。煮物はある程度煮立ったところでコンロからおろし、鍋を新聞とビニル袋で巻いて余熱で蒸し煮をした。梱包を外すとまだ温かい。味も染みているようだ。
「一汁三菜。いつもながら見事だねえ」
「いま、お茶を淹れますね」
 ふらりと食卓についたフジハラの前に、そば茶を淹れた湯飲みを置いたら完成だ。
「デザートにりんごも剥いてあります」
「……俺、今朝リクエストとかしたっけ」
「いいえ。あ、な、何か食べたいものがありましたか」
 それならちゃんと聞いておけば良かった。
「いや、何でもない」
 慌てる史緒を落ち着かせるようにあっさりと言った。やけにくすぐったそうな笑いが零れたことが気になったが、フジハラが手を合わせたので史緒も倣う。
「いただきます」
 サラダに箸を伸ばすフジハラを盗み見る。水菜を口にした瞬間、フジハラはほんの僅かに目を瞠り、頬を緩ませてくれた。気に入ってくれたようだ。史緒も水菜を噛む。しゃくりと爽やかな音がする。
 フジハラは基本的に好き嫌いを言わない。しかし少しでもフジハラの嗜好が知りたいと、注視していて気付いた。フジハラは好みのものが卓に出ると、箸運びが丁寧になる。味わってくれているのがわかる。以来、史緒はその皿の中身をしっかり記憶することにしている。
「シオ、さっきは何か考え事でもしてた?」
「あ、えっと、その、……スーパーで割引券を、貰って」
 言うか言うまいか迷ったものの、うまく誤魔化す話力など史緒にはない。
「二割引の。行くかどうか、考えてました」
「何だ、もっと難しいことかと思ったら」
 フジハラはおかしそうに破顔する。
「行けばいいんじゃないのか。ああ、荷物を運ぶのが大変だとか?」
 二割引はでかいけど、自転車に乗る荷物には限界があるもんな、フジハラは独り合点して考え込んでいる。
「よし。じゃあ俺も行く」
「え」
 結論を出すのは早かった。
「次の休みにクルマ出すから。そしたら荷物で悩まなくていいだろ。せっかく安いんだ、買いだめできるものは買いだめしよう」
「え、えと、でも」
「クルマ運転するなんていつぶりかな。覚えてるとは思うけど」
 フジハラは感慨深げに呟いた。口ごもる史緒のことも、そのときばかりは見えていないようだった。
「楽しみだ」
 妙に乗り気な家主に、結局反論することができなかった。



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