フジハラさんと僕(4)/120526

「シーオ、プリン買っていい?」
 言いながら既にフジハラは、新発売のプリンをカゴに入れていた。財布を握っているフジハラが史緒に念押しをするというのも妙な話だった。カゴを乗せたカートを押す史緒は、賞味期限を確認する。
「あの、奥にある賞味期限が長いやつと、取り替えませんか」
「すぐ食べる」
 史緒は返す言葉に困った。
「あっ、信じてないな」
 仕方ないと嘆息し、フジハラはプリンを取替える。それはそうだ。今やフジハラの冷蔵庫を預かる史緒は知っている。フジハラは新商品が好きだが、買うだけ買って満足してしまうことがままあるのだ。このプリンにしても、すぐに食べるかどうかはかなり怪しい。
 フジハラが運転する車で十数分。史緒は再び皆川の働くスーパーに足を運んでいた。久しぶりのことだからか緊張顔で運転していたフジハラは、無事に駐車をすませた後はその反動のように明るい。食べたいもの、必要なものをうろうろと探し回っている。
「あとミニトマトだな。この間作ってくれた、トマトとジャガイモのバターソテーがもう一回食べたい」
 襟足の伸びた髪をなびかせ、踵を返しざまの流し目が決まっていた。ただし向かう先はミニトマトというのが抜けている。
「買い忘れはないですよね」
「多分」
 史緒は怖々とレジを見る。
(いなかったらいいなあ、と思ったんだけど)
 大学そっちのけでアルバイトに精を出しているというのは本当らしい。今日の皆川は前髪をピンクのピンで留め、先客の女性にあらあらかわいいわねえ、などと声を掛けられている。同じ調子でパートの女性たちにも可愛がられているのが目に浮かぶようだ。
「お、安積だあー!」
 史緒に気付くとぱっと笑顔を見せる。皆川の朗らかさとは対照的に、史緒の頬は引きつってしまった。こうなったらどうにか誤魔化すしかない。
「シオ、友達?」
 腕を組んで史緒の後ろを付いてきていたフジハラが、耳元で訊く。
「だ、大学の同級生で」
「ミナカワミササ!」
 皆川は人懐こく笑い、カゴを引き寄せる。
「面白い名前だね」
「ミナカワはこの名札の通り、ミササは数字の三に朝晩の朝で、皆川三朝」
 鳥取の温泉街と同じ字か、とフジハラが応じる。そんな地名があるとは、知らなかった。
「うちは元々あっちが地元で、じーちゃんが『ルーツを忘れるな』とか言って付けたんだ」
 思いのほか穏当な話題のまま、レジ打ちが済んでゆく。このまま何事もなく終われ。史緒は祈った。しかしそう上手くは行かない。
「おニイさんは、安積のお兄さん?」
(やっぱり来たっ)
 どう答えていいものか。肯定するのは怖い。嘘をつくことになるし、フジハラにとって史緒の兄扱いされるのは不快かもしれない。否定するのも憚られる。どういう関係なのか、改めて説明することになってしまう。そのためには家出のことから話を始めなくてはならない。それはどうしても避けたかった。焦りが口下手に拍車をかける。史緒の口は空転するばかりで言葉が出てこない。
 固まってしまった史緒の肩を、ぽんと叩いた手があった。フジハラの長い指が励ますようにそこにあった。
「家族だよ」
 フジハラは静かに答えた。
(家族)
 腑に落ちた。フジハラの自分に対する振る舞いは、まるで仲の良い家族のようなのだ。食卓を共にし、他愛のない会話をし、気兼ねなくじゃれて、受容しようとする。外出時と帰宅時には挨拶を、という条件も「家族っぽさ」を引き立てている。
(家族みたいなものとして、選ばれた?)
 それが家賃の代わりなのだろうか。しかしフジハラが疑似家族を必要としていたとして、理由も、史緒であるべき必然性もはっきりしなかった。
「いいね、ダンランだ!」
 ハッと気が付くと皆川はレジを打ち終え、フジハラが支払いをしているところだった。お釣りを受け取り、フジハラは品物をビニル袋へ入れるべくカゴを持ち上げている。史緒が持つと言っても軽くいなされてしまう。
「えと、じゃあ、これで」
「待って、安積」
 皆川は他の客が並ぶ前に、レジに休止中の札を出した。
「ちょっとだけ話せる? すみません、レジお願いしまあす」
 バックヤードに向かって声を掛ける。
「ふ、フジハラさん」
 まだ何か追求してくるつもりだろうか。つい縋るようにフジハラを見てしまう。
「どうした」
 怯えた色が目に出たのか、フジハラは気遣わしげに訊いてきた。考えてみれば、ここで頼る権利なんかあるのだろうか。
「出来れば安積と二人がイイ、かな」
 皆川は目顔で史緒のほうを窺っている。史緒はしばし考え、ごくりと唾を飲み込んだ。
「あの、フジハラさん、車で待っていて貰ってもいいですか」
「構わないけど」
 パートの女性が顔を出すのと入れ違いに、皆川は店の隅へと史緒を手招いた。
「あのさ。なんで安積がそんなキンチョーしてるかわかんないけど、だいじょぶ?」
「だ、大丈夫」
 本当は大丈夫ではない。史緒の現状は答えに窮することばかりなのだ。
「あのさ。話ってのは」
 さあどこから来る。史緒はぎゅっと拳を握る。
「単位のことなんだけど」
「……へ」
 気の抜けた声が出てしまった。
「安積、最近大学行ってないって言ってたでしょ。こないだガッコに顔出したら試験の予定表が貼られてて、大丈夫かなぁって気になって。そこそこ出席してた講義なら、レポートと試験どうにかすればいけるかもしれないよ」
(なんだ)
 史緒の表情から訊かれたくないのだと察してくれたのかもしれないし、実の兄なのだと信じてくれたのかもしれない。とりあえず話を振るつもりはないようだ。史緒は深く息をついた。
 安堵したとたんに皆川の言う単位のことが気になってくる。一学年後期の授業は、確かに八割方出席できていたのだ。
「でも、えっと、試験を受けにも行けなさそうで」
「レポートは? メール提出ってのも多いし、英クラの課題とかならおれがついでに出せる。自分の試験のこともどうせ確認に行くから、安積が取ってる講義おしえてくれたらテーマとか見てくるよ」
 退学または休学という思い切りが付けられない史緒にとって、渡りに船の提案だった。
「でも」
「ついでついで」
 先回りして制される。
「安積ケータイ持ってる?」
「も、持ってない。ごめん」
 家を出たときに置いてきてしまった。今時珍しいなあと、皆川は変に感心している。
「じゃあおれがシフト入ってるとこメモるね。買い物にきたときにでも声かけて。ガッコ行けなくてもできそうな課題、書き出しとく」
「あの。だけど、それは」
 手間のかかることなのではないだろうか。フジハラといい皆川といい、人に迷惑ばかり掛けている。
「さっきのひと、フジハラサンだっけ。またふたりでウチに買い物に来て。たくさん買ってって、できれば常連になって? それで貸し借りナシね」
 ピースを作って見せる。史緒はどうにも落ち着かない。
「……どうして」
 どうしてそんなふうにしてくれるの。思わず疑問が口を突いた。ただ単純に、不思議で――不安だった。
「だって、クラスメイトじゃん」
 皆川は目を丸くする。
「他に理由がいる?」
 みいちゃん、と遠くからパートの女性が呼ぶ声がした。皆川は大きく手を振って応える。
「戻らないとやばいみたい。またね!」
 慌ただしくレジのほうへ戻って行った。
(どうして)
 史緒は駐車場へ歩きながら考える。
(普通の人には、ああいうのが当たり前なのかな)
 史緒には分からない。申し訳なくてたまらない。時間を割いて貰うほどの価値なんかないのだ。返せるものだってない。
 どうして、と一番に問いたい相手は運転席でのんびりと雑誌を読んでいた。史緒が歩み寄ると目線を上げ、ドアロックを解除してくれる。
「終わった?」
「はい。お待たせしてすみません」
 ドアをくぐると、暖房の風がふわりと史緒を包んだ。頬が、手が、そういえばずいぶん冷たい。
「……あったかい」
「暖めておきましたとも」
 目を眇めて笑う。史緒の体が空気に馴染み、じわりと温まってゆく。
(このひとは、こんな笑い方をする人だっけ)
 素直に、ただ柔らかな感情を零すような笑顔を、いつからしてくれるようになったのだろう。会ってすぐの頃はもっと底知れない顔をしていたのに。
「帰るとするかあ」
 フジハラは伸びをした後、ゆっくりとハンドルを握った。後部座席に積まれたスーパーのビニル袋が音を立てる。法定速度を律儀に守りながら、ステーションワゴンは家路を辿り始めた。



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