「お弁当、ハンカチ、お財布、携帯っ」
玄関へ走るフジハラの背中を史緒の声が追う。
「オッケー持った! 行ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
扉が閉まるのを見届け、ようやく史緒は息をついた。慌ただしい朝だ。いつも通りの時間に起こした史緒に、今日は朝が早い日だったとフジハラは色をなくした。思い出して可笑しくなる。やらかしたな、ひとりごちてからは猛ダッシュだった。せっかく作った朝ご飯――トマトとワカメのあえもの、里芋の煮付け、ニラ玉汁、白米――は史緒の昼食に化けてしまった。
(仕方ないや。また夕飯を頑張ろう。さて)
今日は家事の合間にレポートの構想を練らなければ。
――これ、じゅもん?
皆川は不味いものでも食べたような顔で言ってきた。史緒は在籍している経済学科の他に、文学部、法学部、学科を問わず参加できるものなど、多岐に渡る講義を受講していた。紙片に課題を書き付けてはみたものの、ほとんど意味がわからなかったと皆川は呻いた。史緒にとってはベースの譜面のほうがよほど難解なのだが。
皆川のように大学以外の居場所があるわけではなかった史緒は、講義には真面目に参加していた。だから概ね講義の中身は覚えている。とはいえレジュメも参考文献もなしに課題をこなすのは骨だ。
(図書館に行きたいな)
体の奥が、じんと痺れた。図書館。本。もう長いこと何も読んでいない。認識したとたんに飢餓感に襲われる。
(欲しい、なあ)
たまらなく本が好きだ。行と行の間に潜ってゆくときだけ、現実を忘れていられる。モノクロームの活字の羅列がなぜあんなにも心を揺さぶるのだろう。参考文献でも何でもいい。この欲求を宥めるものが欲しかった。
しかし今の史緒に図書館は危険だ。よく行く場所だったと知られている。理性を保て。深呼吸をする。レポートはとりあえず朧気な記憶を繋いでゆくしかないだろう。
掃除と洗濯を手際よく済ませ、昼食を終えると、買い出しにちょうどいい時間だった。夕飯のメニューは何にしようか。考えようとするのだがうまくいかない。思考力のほとんどがレポートに注がれている。玄関を出たとたんに冷えた空気も、堅い歩道もなんだか遠い。頭の中がふわふわとしていた。
(マーシャル・ラーナー条件について述べよ。二千字。大雑把だなあ、Jカーブ効果のことまで書いても規定字数に届くかどうか)
用語を定義して、自分なりの意見を述べ、まとめる。それだけの作業ではあるのだが、思うようにいかない。「自分なりの意見」も文献を読み比べて検討すると奥行きが出せるだろうに、それができないのがもどかしい。
「危ない!」
ぼんやり歩いていた史緒の肩を、ぐいと引く腕があった。
「み、なかわくん」
「あーびっくりした。安積ピーマンと心中?」
史緒の肩口から小さな頭が覗く。ぴーまんしんじゅう、響きが気に入ったのか舌足らずに繰り返す。史緒の目の前には確かにピーマンの入った段ボールが迫っていた。店の入り口からも僅かにそれており、今更ながらどこへ行くつもりで歩いていたのか恥ずかしくなる。
「しかもコートとマフラーどこやったの」
言われて初めて、史緒は自分の格好を見下ろした。
「わ、忘れたみたい」
「忘れたって安積」
今日は寒いよ、皆川は目をぱちくりさせている。いたたまれない。
「ちょっと、考え事をしてて」
「呪文解読?」
相変わらず皆川のなかでは史緒の課題は呪文らしい。小首を傾げつつ店内へ史緒を導き、手ずから買い物カゴを選んでくれる。
「うん」
「すごいな。おれ勉強ニガテだから」
それを言いたいのは史緒のほうだ。皆川にはベースがある。史緒には自信を持って特技と言えるようなものはない。ならば勉強くらいは頑張ろうと思ってきただけだ。
「そうだ。安積が探してたヤツあったよ」
エプロンのポケットをかき回し、一枚の広告を差し出してくる。
「クリスマスケーキの注文票。引き取りは二十一日から二十四日までの間、ここで」
「わ、ご、ごめん……!」
広告には色とりどりのホールケーキが並んでいる。前回顔を出したとき、この注文用紙を探していると零したことを気にしてくれたのだ。
「フジハラサンと食べるの?」
「そうしようかな、って」
相談をしたわけではない。むしろ秘密だった。クリスマス・イブには思い切り腕をふるって、フジハラに感謝の気持ちを伝えるのだ。少しでも喜んで、驚いて欲しかった。
(初めて、クリスマスらしいクリスマスができるかも)
ケーキと、暖かい料理と、談笑。想像するだに心が浮き立つ。当たり前の十二月二十四日にずっと憧れていた。
雑談しているうちに、店内を一周してレジまで来ていた。皆川はそのままレジカウンターにおさまった。休憩終わり、と自ら宣言する。
「休憩時間だったんだ? ご、ごめん、付き合わせちゃって」
「もう飯は終わってたから」
相変わらずの手際の良さで品物をさばいてゆく。締めて二千五百六十円。
「安積、今日は早く帰ったほうがいいよ。雪が降るかもって天気予報でゆってた」
「道理で冷えるね」
「なのにあったかくしてくるの忘れちゃうんだもん」
返す言葉もない。快活な皆川の笑い声が耳に痛かった。
ビニルを両手に歩き出した史緒は、自分が自転車で来ていなかったことにもやっと気が付いた。おそらく玄関を出たときには、散歩がてら思考をまとめようとでも思っていたのだろう。正気付いてみると外気は確かに冷たかった。空に立ちこめる雲もどんよりとしていた。天気予報はどうやら当たりだ。
ぽつり、と鼻先に冷たいものが落ちた。
(あちゃあ。降ってきた)
思う間もなく本降りになる。雪ではなく雨だ。いっそ雪になってくれたほうが気分は良かった。薄手のセーターとジーンズがどんどん水を吸って重たくなる。靴のなか、シャツの襟口からも水が滑り込む。走って帰りたいところだが、買い物袋が邪魔をする。
寒い。感覚がなくなるくらいに肌が冷えてゆく。張り付いてくる服が気持ち悪い。激しい雨音が耳にかかる水でぼやけていた。膜ひとつ向こうから来る響きは誰かの足音にも似て、史緒を焦らせる。
(早く早く)
帰るのだ。暖かい部屋へ。そうしたら何も心配することはない。
躓きそうになりながら進む。しぶきで霞んだ視界の中にフジハラのマンションが見えてきた。肩の力が抜けた。もう一息だ。エレベーターにたどり着くと、史緒の後ろには足跡で水の道が出来ていた。
フジハラの部屋は五階の最奥だ。四桁の数字をテンキーに打ち込むと玄関の鍵が開く。既に暗記しているその番号を、小刻みに震える人差し指で押した。テンキーに触れることさえ、血の気の失せた指には苦痛だった。
(ゼロ、イチ、ゼロ、ロク)
最後にアスタリスクを押す。それで中に入れる。そのはずだった。
拒絶するようなテンキーの明滅のあと、静かになった。鍵が開く音がしない。濡れた手でノブを握ってみるものの、押しても引いても駄目だ。
(開かない)
血の気が引いた。どういうことだ。この数字でいつも出入りしていたではないか。
両腕のビニルをコンクリートの廊下に放り、もう一度数字を押してみる。変化はない。
「何で……っ」
追い出されたのか。胃が重たくなる。そんな剣呑な気配は、今朝のフジハラにはなかったはずだ。
(落ち着け。よく考えろ。昨日の夜フジハラさんが、何か言っていた気がする)
深呼吸をした。その動きも震えを帯びていた。白い息が次々に立ち上る。
(そういえば、確か、セキュリティの問題がどうとか)
――鍵になる数字は定期的に変えることになってるんだ。明日っから新しい四桁になるからな。これはそのメモ。覚えるまでは持ってろよ。
「あれを、コートに入れてたんだ……」
頭を抱えたくなる。どんどん体は冷えてくる。なんとか解錠を試みなくては。
(こういうときに、よく使う番号って何だろう)
自分の誕生日、車のナンバー、電話番号、――恋人に纏わる数字。
「あ、れ」
あれえ。我知らず呟いていた。
分からない。
(僕はフジハラさんのことを何も知らない)
改めて愕然とする。フジハラが快適に生活できるように、住まいや食べ物の好みについては注意していた。しかしプライベートな情報を何ひとつ知らない。
怖かったのだ。
訊いて、拒絶されたら。面倒だと思われたら。出て行けと言われたら。どうやって生きていけばいいのだろう。この場所に慣れつつある史緒には想像できない。
当てずっぽうに数字を打ち込んでみる。扉はやはり開かなかった。沈黙するばかりの扉に拳をぶつけた。中にフジハラがいるわけでもないのに、開けてくれとねだるように叩いた。開かなかった。
ここは寒い。冷たい。痛い。この向こう側へ入れて欲しい。
「フジハラさん」
(あなたのことを知りたい)
アルミに負けて腫れた手がだらりと落ちる。どうしようもない虚脱感が押し寄せて、立っているのが辛かった。